「蘭の会」へのおてがみ
こんばんは、ヒラクです。
先月大阪のココルームで出会った詩人の上田さんの「蘭の会」に寄せた文章が公開されたので、このブログにも転載しておきました。テーマは「詩について」。20歳のころを思い出しつつ書きました。
(詩人の集まりに、素人がこんな話を書くのも恐縮なのですが)
「蘭の会」のサイトはこちら。
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蘭の会さま
はじめまして、東京でデザイン業を営んでいる小倉ヒラクともうします。
「詩」というと、かつて20代はじめの頃に絵の修行をしたフランスを思い出します。
当時、フランス語がまったく喋れない僕に、知り合いがジャック・プレヴェールという詩人の詩集をオススメしてくれました。ジャック・プレヴェールの詩は、とても簡単な単語を、とてもシンプルに使って、かつダブル・ミーニングや隠喩に富んでいるアクロバティックなものが多く、僕はその詩集”paroles”(たしかfolioの文庫本だったな)を、夢中で何度も読み返した記憶があります。
いま思えば、それは理想的な言葉の学び方でした。
何が理想的なのか。それは、全ての言語の本質であり出発点であるものが「詩」である、ということなのです。
言葉が言葉として生まれた瞬間は、それは「記号」になる前の、未分化で、象徴的で、音楽的な、一言ではくくれない「多義的」なものだったはずです。
それが、言葉が定着し、体系化されていくと、「AはAである」「BはAではない」という風に、概念が切り分けられ、整列させられ、ある固定化された社会的な意味を付与されます(会社の会議とかは、そういう「記号」のやりとりによって成り立っていますよね)。
それはそれで結構なことで、そういう固定化されたルールがあるからこそ、契約も成立し、裁判も成立し、通販で注文したものが間違いなく届く訳なのですが。
「詩」は、僕たちを言葉の始源に戻してくれる優れた装置です。「ことば」は「こえ」であり「からだ」である。
そこには、ことばを使う主体である自分の向こう側にいる「神さま的なもの」とアクセスする装置であり、「記号」には還元できない「その時、その瞬間」のこころのふるえを記録する装置なのでした。
ジャック・プレヴェールの詩のいくつかは、いまでも念仏のように空で暗唱することができます。それを思い浮かべるときに僕のなかでイメージするものは、その「響き」の磨き抜かれた美しさです。それはジャック・プレヴェールの才能の輝きであると同時に、「フランス語」という言葉の本質です。
「ことば」の本質は「こえ」である。そこには祈りがあり、からだがある。
詩人は、そのための触媒、ことばは「記号でない」ということを常に主張している大事な存在だなと思うのでした。