「粋」なものの見方をしたい 〜コンテクスト認識とテクスチャー認識
そろそろこの名著をまた紐解く時がやってきたのかもしれない…
こんばんはー、ヒラクです。求人記事が反響を呼んでいたり、てまえみその絵本が出版されたりと、賑やかな日々が続いています。
みなさま、本当に僕たちのこと気にかけてくれてありがとうございます。本当、感謝しかないぜ。
さて。
今日はあるものごとについての「認識の違い」の話をしようかなと。
(久々の『メタ』な話題です)
コンテクスト認識とテクスチャー認識
こないだ、益子で「静けさを聴くワークショップ」に参加したときのこと。
冬の里山をみんなで黙って散策していくんですが、そこでミュージシャンの津田さんが「静けさの聴き方」をガイドしてくれました。
「水の流れる音も、ちょっとした高低差によって音がぜんぜん違う」
「風で松が揺れる音を聞いて下さい」
「高いところで街の音を聞くと、犬の声も車の音もフラットになって聞こえてきます」
とかね。
で、そういう風にだんだん音の解像度が上がってくると、ある瞬間気づくんですよね。
あっ…
世界のすべてって、音楽なんだ。
(↑ポエムな言い回しだな汗)
これが、世に言うテクスチャー認識です(←僕が勝手に言っているだけなんだけど)。
テクスチャーってのは、肌理とか手触りとか、「質感」のこと。
ものごとを「質感」で捉えて吟味するのが、テクスチャー認識です。
対して、西野カナの音楽を「震えるわ〜」と言って聴くのはわかりやすくコンテクスト認識の典型と言えるでしょう。
コンテクストは、まあ要は「文脈」のことです。
ものごとを「文脈」で捉えて意味付けするのが、コンテクスト認識です。
テクスチャー認識って、つまり「粋」なのではないか?
とりあえず、音楽で違いを説明してみましょう。
音楽には、メロディとハーモニー、リズム等の「人為的にオーガナイズされた文法」に沿って演奏されます。歌の場合だったらそこに「歌詞」という非常に意味の力が強い要素も加味されてくる。
で。
例えば西野カナの音楽を聴く場合、「このメロディーがいいね」「この歌詞に共感する」というように聞きます。メロディーも歌詞も、非常に感情移入させる力が強い要素なので、「感動した!」「アツくなった!」とエモーショナルな状態になります。
それに対して、冬の里山のサウンドスケープを愛でる場合は、メロディーもハーモニーもリズムも歌詞も関与せず、音色や、微妙なエコーやリバーブかなる遠近感を味わうことになります。これ、非常に面白い体験なんですけど、いわゆる感動とかアツくなる感じはないんですよね。
じゃあ、それを何という表現であらわすかというと、「粋」かなと。
感覚を研ぎ澄ませてテクスチャーを嗅ぎ分ける。そんな大人に私はなりたい。
もう1つ実例。
高級フレンチをホテルの最上階で食べるのと、農家のおばちゃんの握ったおにぎりを食べる。
コンテクスト認識でいけば、確実に前者のほうがキャッチー。
そこに「高級」「フレンチ」「ホテル」「最上階」という、月九のドラマ的メディアで拡大再生産されまくった記号がいっぱいくっついているわけです。
でも、実際に「味わう」というところでいけば、食べてみないとわからない。
農家のおばちゃんの作っているササニシキが実はとんでもないお米で、しかも余計なものを入れないで超シンプルに塩にぎりで仕上げてきたとしたら。
そうすると、お米と塩という「もしかしたら料理というよりもマテリアルを直接食べているかもしれない」というところまで削ぎ落とされた要素の、テクスチャーのみを愛でるいう粋な世界が待っているかもしれません。
さて。
そこでポイント。「世界一の」とか、「三ツ星レストランで修行を積んだシェフの」というアイキャッチが無いので、「その素晴らしさを他の人に伝える」という事が非常に難しい。なので、このとんでもない塩にぎりは原則「メガホンで知らせる」ことができません。
つまり、「最高の塩にぎり食べに、宮城行かない?」みたいな事を一言いっただけで「あ、行くわ」と即答できるテクスチャー認識の人しかそこのサークルに加わることができないということになる。
あ、わかった。
昭和の粋な文化人(吉田健一とか白洲正子とか)が何となく「秘密サロンの人」的な雰囲気があるのって、これだ。
世間では「愛されて100万本!」とか「月刊1,000万PV!」という大きな数字が踊っていますが、そことは違う某所で、「神に捧げる極小音の音楽聞かない?」「2畳半のヤバ過ぎる茶室行かない?」という粋なインフォメーションが地下で出回っているのですよ。
んー。
テクスチャーを愛でる。
僕の今年のテーマはこれだ。
(コンテクストで盛り上がるのも面白いんだけどね)