「寝る子は育つ」のはなぜか。
取材、撮影とあちこち走り回った土曜が終わり、日曜朝は遅くまで熟睡(起きて窓を開けたらビックリするぐらい「春」だった)。
前にも書いたけれど、ここ最近の僕は「ちゃんと寝るひと」になった。
ぜんぜん寝ないでエンドレスに仕事&夜遊びをリピートするひとだった過去が嘘のよう。
で、過去を思い返してみると、「ちゃんとよく寝るひと」だった時期は、フランスに滞在していたころの最初の三ヶ月のことにさかのぼる。
あの頃は「ものすごくよく寝るひと」だった(一日9〜10時間くらい寝ていたとおもう)。別に仕事したり学校に行ったりする必要がなかったのもあるけど、主な原因は「知らないことばを学んでいたから」なのだと思う。
「眠り」については科学的にもよくわからないことが多々あるようなので、これはあくまでヒラクの私見なんだけど、眠りのメインの役割として「情報の整理整頓」というものがあると思うんですね。起きているあいだにインプットした情報を、寝ているあいだだけ活動するもうひとりの自分が「これはこっち」「あれはあっち」と、洗濯物を取り込んで畳んでクローゼットにしまう、みたいな作業を律儀にやってくれているんじゃなかろうか。
で。
起きているあいだに触れる情報の、「既知のこと」と「未知のこと」のバランスで、寝ている時の作業量が変わっていくのではないか、と思ったりします。
知らない国に暮らして、ことばもわからなければ文化も違って、人間関係も一からスタート、食べたり飲んだりするものも違うとあれば、「未知のこと」のインプット量が尋常でない。
なので、夕方になるとあっという間に眠くなり、夜のあいだ長時間をかけて「ナイフとフォークはこうやって使うらしい」とか「フランス語だと『行く』と『来る』が逆になるらしい」とか「役所の態度がでかい受付のおばちゃんにナメられないためにはこういう態度でいったほうがいい」みたいな膨大な情報を整頓して、明日よりプログレッシブになるための準備をしているんですね、「夜の縁の下の力持ち(なんかこの表現ちょっとやらしいな)」が。
…と書いているうちに思い出たのが、僕がフランス語をしゃべれるようになった時のこと。
最初の「コーヒーおくれ」すら通じなかった状態から三ヶ月間は、ひたすら「日常いかにも使いそうなフレーズ(ブレーカーが落ちたんだけどどうしたら直る?とか、地下鉄の回数券買いたいんだけどとか)」を、文法を一切無視してひたすら暗記することを続けました。
そして3ヶ月ぐらい経ったある日、いきなり「すらすら話す」ようになったんですね。段階的に話すのではなくて、ある瞬間とつぜんブレークスルーして「あの演劇のポスターマジでダサい」とか「白ワイン、もっと冷えてるのないの?」とか、教科書的でない、こなれた表現がいきなり口をついて出てきた。つい昨日までじっと黙っていたヤツがいきなりおしゃべりになったのに周りもさぞビックリしたと思われます。
で、そこからさらに三ヶ月はそのままの状態で推移し、さらに三ヶ月後にその上のレベルへ行った(文化論とかをたどたどしいながらも話すレベル)。
よくよく考えれば不思議ですよね。ことばって、段々とうまくなると思うじゃないすか。
でも実際は、「いきなり」できるようになる。自転車に乗れるようになるのも、何度も何度も失敗した後に、ある時「あれっ、転ばないぞ??」とスイスイ走れている自分に気がつく。
これはかんがみるに、「準備が整うのを待つ」という状態だと思うんですよ。
ある一定値まで情報がたまって、しかるべき場所に収まって、俯瞰して「うん。そろそろ『成り立っている感じ』になったんじゃないかしら」と判断できたときに、「行っておいで」とゴーが出される(夜の縁の下の力持ちから)。
そのときに、ほとばしるようなアウトプットが解き放たれる。
それまではひたすらでたらめに情報をインプットし、脳みそのなかの部屋を散らかしまくる。
そしてそれを毎晩、片っ端から片付けていくうちに、「あ、そうか。これとこれとこれはこのカテゴリーで括っていいのか」とか「こいつはもういらないな」とか、「情報のオーダー(秩序)」が事後的に会得されていく。
かようにも自分のなかでは、意識しないところで複雑な作業が行われているのですよ。
というわけで、ひさびさに「ちゃんと寝るひと」になったヒラクは、いま何を散らかし何を片付けているのか。それは近日とつぜん「わかった!」ということになるのでしょう(ブログを書きはじめるときのように、自分が何をしようとしているのかは事後的にしかわからない)。
自分のことなのに、他人ごとのように楽しみだぜ。