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2020年は、「信じる」を失わないための足元確認の年だ。

もう10年近く続けている恒例の書き初めブログ。
毎年「今年はこんな感じの1年になるのではないか…」ということを書いているのですが、年々書くのが難しくなっている。

それはなぜか。
社会の状況が不透明で複雑になっているのもある。が、それより「最近の僕は無責任にものが書けなくなっている」というのが大きい。しかしそれなりに社会的責任があるので…というのは僕の勝手な思い込みなので、邪念を払ってテキトーに書くことにする(自分の好きでやってるブログだし)。

さて2020年はどんな年になるのだろうか?
不特定多数の人に向かって書くのは難しいので、僕自身、そして僕の周りにいる人(つまりアナタのことだ)を対象に考えてみるよ。

今年のテーマは、「信じる」というインフラが日本の社会から失われていくなかで、個人は何ができるのか?について。

「信じる」が失われる

2019年の年始ブログにこんなことを書いた。


ここ数年「今まで当たり前だった常識や社会の基盤が崩壊していく」ということを言っているけれど、今年はこれまでの「気づく人はもう気づいている」段階を超えて、この社会に生きる大半の人が日々の生活のなかで「あれ、おかしいな。これまずくない?」というレベルで秩序の崩壊に立ち会うことになる。


 

実際2019年はそんな年だった。スキャンダルがあり、災害があり、海の外では世界規模の大きな変化が相次いだ。にもかかわらず、なぜか変わろうとしないままただ劣化していくように見える日本の社会に「これはヤバいのではないか?」と思ってた人は多いと思う(もちろん僕も思った)。

さてそんな危機感の蔓延を予感して、こんなことも書いた。


ちょっとヘンな理屈なのだけれど、変化する時期にこそ「いますぐに何かをしなければいけないという焦燥感」あるいは「自分が世の中を何とかしなければいけない万能感」にとらわれない努力が必要かもしれない、と僕は年始に長い散歩をしながら考えた。


 

久々に読み返したら「いいこと書いてるな、自分」と思ったぜ。
ここ数年間、大きな変化に対する準備をしてきた人、不器用なりに自分の船をつくってきた人は、危機感の顕在化に慌てなかったのではないだろうか。

2019年は、万能感と焦燥感のあいだで深呼吸する年だ。

それでは僕なりに2020年のことを考えてみたい。

今年は「準備してきた人」とそうでない人の行く末が決定的に分岐する年。社会が沈没していくなかで「大変だけど、私の船はなんとか沖に漕ぎ出せそう」という手応えを掴む人と、本当にどうしていいかわからない人で人生に対するスタンスが変わってしまう年だと思う。

「つまりヒラク君は何が言いたいんだね?」

そうだね。
今年の僕たちが失うものは「信じる」ことだ。

人間社会は「信じる」ことで成り立っているものが多い。お金もそうだし、安全もそうだし、人間関係もそう。「ウソじゃない」ことを前提に、紙切れや電子データでモノやサービスを手に入れたり、契約を交わしたり、社会的役割を任命したりされたりする。

しかし去年からさらに進行する崩壊によってこの「信じる」という前提がどんどん成り立たなくなる。

つまり「表だって言われていること」が信用できない建前のように思えてしまう。「そんなこと言って、裏では自分を騙すつもりなのではないか」という見えない本音を勘ぐるようになり、黒い気持ちが霧のようにあちこち立ち込めるような社会になるのではないか、と僕は(悲観的だけど)予期する。

で。
自分でも「そりゃあんまりだ」と思うが、この疑いの連鎖は高確率で「お互いを見張り合う社会」を生み出すだろう。他人の善意の言動に対して「それは建前で実は騙すつもりなのだ!」とありもしない裏の真意を暴露してみせたり、ルールや常識から逸脱した行為を見かけたら、自分に危害を加えているわけでもないのに強く非難したりする。

こういう後ろ向きなコミュニケーションが、極端な一部の人だけでなくもっと広範に行われるようになる。その先に待っているのは、深刻な分断と思考停止。元凶は「信じる」というインフラが社会から失われることだ。

前提を明文化しよう

こういう厳しい時にこそ、前述の「自分の船で漕ぎ出した人」の振る舞いが大事になる(僕のブログを読んでいる人の多くはこれに該当していると思う)。

自分自身にも言い聞かせたいことだけれど、大事なことは2つある。
一つは自分のできるサイズで「信じる」が通用する場所をつくることだ。それは地域の集まりだったり、会社組織だったり、友人や家族の集まりだったり。「信じる」で動く自治区をつくる。しかしこれは社会の大勢に逆行することになるので、きっと困難に直面する。

そこで2つめがポイントになる(ここから本題ね)。
自分なりの場所をつくる時に「前提を明文化する」ということを意識する。今まで当たり前だったことを、野暮でもいいから「きちんと言葉にして説明する」ことが強い意味を持つ。

「なぜ私があなたの力になりたいかというと、つまりこういうことだ」
「なぜ今自分たちがこの場に集まっているかというと、つまりこういうことだ」

すること、いることに対しての前提を言葉にして共有する。あるいは、

「なぜ私があなたに理由を問わないか」
「あなたに期待してもらっても果たせないことはこれだ」

というネガティブなことも丁寧にコミュニケーションとして可視化する。

社会のベースが「信じる」で動いている時に説明しなくてもいいことが、「疑う」で動くようになると逐次きちんとカタチにして確認しなければいけなくなる。
(さもなければ、裏の真意の読み合いになって疑念が増殖していく)

めんどくさいけど、この「明文化」の作業がこれからしばらく「未来にとって少しでもベターな場所」をつくろうとしている人には必須な作業になるだろうと僕は思う。

すること、いることが生まれる空間を、いちど丹念に掃除しておく。
空気を吸うように当たり前に存在していたものを「実は意識しないと維持できないものだよ」と呼びかける。

今まで言わずに済ませてきた「信じる」の理由を明らかにする。
これができる人が増えたぶんだけ、「疑う」の侵食を食い止めることができるようになる。

繰り返すけれど、僕たちは「信じる」が失われる社会に生きなくてはいけない。だから「信じる」の価値を再評価して検討することを日常のコミュニケーションの俎上に乗せなければ「疑う」が黒いシミのように拡がっていく。

そう僕は感じている(超イヤだけど)。

俯瞰して全ての人を導ける救世主のような人は登場しないだろう。そのように見える人がもし出てきたとしても、それは悪魔の類だ。どんな立場なのかに関わらず、自分の周りの人が「信じる」の地盤で歩けるようしつこく足元確認をし続けられる人が増えただけ、世界は「だんだんマシ」になっていく。

きっと多くの人にとってラクじゃない一年になるだろうけど、まずは足元確認だ。
2020年も良き年になりますよう。

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