▶レビュー

銀座でマイケルとウッディ・アレンに思いを馳せる。

こんばんは、ヒラクです。気づいたら師走。最近本当にあっという間に時間がたちます。
週末は銀座へ。
CDジャケットとPVの制作を手がけさせてもらった「1966カルテット」のレコ発コンサート(クラシックだから「ライブ」とは言わないのですよ)に遊びにいく。
冬の銀座は人がいっぱい。ブティックやカフェは世界各国からの観光客でごった返しておりました。「銀座ブランド」はもう国際化しているのね。で、王子ホールに到着すると満員御礼。カメラマンの正直くんが撮った、カルテットのメンバーの麗しいポートレートがエントランスに飾られ、「今日はホットな集まりでっせ」という良いバイブレーションが発せられておりました。ビートルズとクイーンとマイケルのクラシック・カバー祭りの楽しいライブでした。
個人的に発見があったのはクイーンの「Bohemian Rhapsody」の四重楽奏のカバー。クイーンって「クラシックをロックに翻訳した」んですね。これ聴いて良くわかった。フレディ・マーキュリーのメロディはもちろんなんだけど、ブライアン・メイのギターソロをヴァイオリンで完コピすると、「まんまクラシック」なんですよ。これはたまげた。そういやブライアン・メイって、中世のヨーロッパ貴族みたいな顔してるもんね(白タイツはかせて蝶ネクタイ付けたらルイなんちゃら、みたいなビジュアルになりそう)。ボヘミアン・ラプソディをクラシックでカバーするってことは、「クラシックをロックに翻訳した音楽をクラシックにする」という「マトリョーシカ人形」みたいな入れ子現象だな。
ビートルズはクラシックで聴くとあらためて「曲の良さ」がわかる。「Norwegian wood」や「long and winding road」なんかはもう題名見た瞬間にイメージが沸き上がってくるし、「While my guitar gently weeps」なんかもしっかりアレンジされてて聴き応えがありました。まああれよね。クラシックて語義通りに受け止めれば「古典」ってことですよね。2010年代を迎えて、ビートルズとかクイーンはアクチュアルな音楽から「クラシック」になったのですよ(とヒラク父に言いたい)。
マイケル・ジャクソンも驚くほどクラシックと相性が良かった。マイケルの音楽は、構造でいうと「同じリフを繰り返して、そのうえにメロもサビも乗っかる」みたいな構造だから、意外にクラシックと相性がいいのかもね(ベートーヴェンのシンフォニーなんかを思い浮かべてくださいな)。
なので、リフを支える「ベースライン」が大事なのですね。それがカルテットでは「チェロ」の担当になる。そのチェロの弾き方がかなりグルーヴィーで良かった。これからの時代はチェロ女子だぜ!
さて、そんな1966カルテット。先週末に公開されたPVが、たった3日で50,000アクセスを突破しているそうです。う?ん、すごいね。作った僕たちもビックリです。岩崎くん、亮子さん、正直くん、良かったね(メイクの中澤さんと撮影ヘルプの桑名さんお世話になりました)。
コロムビアの国崎さん、マネージャーのひさ子ちゃん、どうもありがとうございました。
ヒット祈願!
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王子ホールの後は、有楽町のシネ・シャンテでウッディ・アレンのドキュメンタリーを見る。
こちらも満員(月に一度の映画の日だったし)。
大学で最初に2年間は映画批評を勉強した「シネフィル」のヒラクですが、すまない。「一番好きな映画監督は誰ですか?」と聴かれたら「ウッディ・アレン」と即答させてほしい。1965年の「何かいいことないか子猫ちゃん」から今年の「ミッドナイトインパリ」まで、30本近くを見ているのですよ(でもコンプリートではない)。
で、この「Woody Allen a documentary」は、10代の頃にバイトで始めた「ジョーク・ライター」から、ブロードウェイでの「スタンダップ・コメディアン」を経て、エド・サリバンショーで即興ジョークをかましまくる「芸人」としてブレイクする初期から、「泥棒野郎」や「バナナ」の 確信犯的バカ映画を撮りまくり、「アニー・ホール」でヒューマンドラマに挑戦し、「世界は女で回っている」以降低迷し「ついに引退か?」と思わせつつ、「マッチポイント」をスマッシュ・ヒットさせて再びカンヌの赤じゅうたんに登場し、「ミッドナイトインパリス」でメガヒットを飛ばすという「40年間ショービズ映画界の第一線を走り続ける」偉業を時系列で丁寧に切り取った世界中のウッディ・アレンファン「のみ」に焦点をしぼったあっぱれな映画なのですよ。
考えてみれば、イーストウッドやスピルバーグもずっと第一線だけど、寡作だから、「毎年一本撮る」ウッディ・アレンとは意味合いが全然違う。ウッディ・アレンの凄さは「毎年一本つくっても、飽きられない」ことにあると思う。この映画を見た上でのヒラクの仮説としては、もともとライブのコメディアンだったから「客の集中が切れる、飽きるタイミング」を熟知しているのだと思う。
だから、ウッディ・アレンの映画は一見ひねくれているように見えて、実に「あっけらかん」としている。「アニー・ホール」を思い返してみれば、あんなにも辛い別れのあとも、二人は妙にサバサバしている。台詞はごちゃごちゃうるさいけど、「自我の葛藤」とか「心理戦の泥沼」みたいな、見ている人が疲れる要素が慎重に避けられているのがわかるはず。そして「短い」。「ミッドナイトインパリ」は94分。「アニーホール」は93分。「ギター弾きの恋」は95分。ほら、みんな「途中で眠くならない長さ」なのですよ。さらに、ストーリーの本筋のないところで律儀に挟み込まれるギャグのおかげで、惰性で画面を見ることができない。ウッディ・アレンにとって最大の恐怖は「観客が飽きる」ということなんだと思う。自分でも「映画作り過ぎ」なのがわかっている。だからあの細かいギャグの連打は「すまんね、また作ってしまったんだ」というエクスキューズとして見るとわかりやすいと思います(おいおい、本当かよ)。
…とつらつら書いてわかってきたのが、実はウッディ・アレンは「戦前のスラップ・スティック映画」のDNAを受け継いだ数少ない監督なのかも。「バスター・キートン」とか「マルクス兄弟」とかさ。「あんな古くさいもん、見るかよ」という人も多いかもしれませんが、一度騙されたと思ってみて下さい。面白いんですよ。展開速いし、身体の動きもキレてるし、カメラ回しも凝ってるし、全然飽きない(もしかして、「アニーホール」以降のウッディ・アレンは「チャップリン化」したのかも)。
ウッディ・アレンの映画は台詞が多いから一見わかりづらいけど、戦前の「文学とは違う、映画としての映画」をリスペクトしながら映画をつくっているのだと思う。それは今では希有になってしまった「ビジネスと娯楽がイコールになる前」の黄金期が原点なのだと思う。
ああ、「往年のポップス」と「ウッディ・アレン」なんて、今日の記事はずいぶんアナクロな話題について長々と書いてしまった。ヒラクの趣味は案外おじさんなのよ。

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