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紅白歌合戦に見る、日本の儒教的世界の終焉。

2015年の紅白歌合戦について。

毎年大学時代の友人たちと定点観測してきたが、今回ほど「見るに耐えない紅白歌合戦」はなかった。「つまらない」ではなく「見ているのがツラい」。

それはいったいなぜなのか。
結論から言うと「儒教的世界観の無理ゲー感がツラい」ということだ。

紅白歌合戦は、構造的に見てみると「家父長を、従順な若者たちがニコニコしながら取り囲む」というものになっている。家父長とは、北島三郎であり森進一、従順な若者たちとはジャニーズやAKB48。その周りを、家父長に連れ添う妻と、トリックスターとしてのお笑い芸人(本来は違うが、小林幸子もこの属性)が提灯持ちを務めるというふうにレイヤー化されている。

しかしこの構造だけでいくと、日本の戦後歌謡界の一角を占めてきた「儒教的世界を否定するロック界」を排除してしまうことになるので、それは適宜中継で埋めましょうということになる(←今回のバンプ、前回のサザン)。

たくさんの若者たちが笑顔で家父長を取り囲み、万事つつがなく進む。
紅白歌合戦が「日本のその年を象徴するもの」という風に(いったん)してみると、日本の世界観は「儒教的世界」だということになる(家父長というワーディングはドイツ的ですが)。

でね。
僕が今回強烈に違和感を覚えたのはこの「儒教的世界観」なのであるよ。

「年少者が年長者を敬い、五倫を尊ぶべし」という秩序は、人口比率がピラミッド状になっているエコシステムにおいて有効なのではないかとヒラクは思う(それは図式としては、たくさんの年少者が少数の父たちを取り囲むという図となる)。

しかし、現代日本はすでに「逆ピラミッド構成」になりつつある。たくさんの年長者と、少数の年少者という、人類があまり遭遇したことがない状況に直面している。

乳幼児の死亡率がべらぼう高く、かつ戦争が頻発していた古代アジアの世界においては「若者はどんどん湧いてきて、どんどん死んでいく」存在であり、家父長とは「戦乱を生き抜いた叡智と権力の化身」だった(と思う。僕生まれてないからしらないけど)。

その文脈において儒教は「偉大な父たちからサバイバル方を学ぶ」という意味においては大変に有効だったのであろうよ。

しかし今の日本にこの儒教的構図を当てはめてみるとどうだ。
まるで「管理職ばっかりで現場のいない職場」とか「プロデューサーばっかりでプレイヤーがいないデザインチーム」ではないか。

紅白歌合戦を「その年の日本の世相を象徴するもの」として見てみるならば、「父母がいっぱいで、娘息子がちょっとだけ」という現実をちっとも反映していない、というのが気持ち悪い(過去の亡霊みたいなミュージシャンもいっぱい出てくるし)。

あるいはこう考えることもできるかもしれない。
「人口比率における現実の変化に対して、システム変更がまったく追いついていない日本の現状」を的確に表象している紅白歌合戦だった、と。

どっちにしても見るに耐えない悲しいものだったと、ヒラクの所感をここに表明しておくぜ。

【追記1】このように考察してみると、2014年の北島三郎、2015年の森進一の引退表明の必然性が見えてくる。二人は確かに儒教的な意味での「家父長」の系譜であり、だからこそ「もうこの世界に家父長の存在意義は薄い」ということを自分から表明したのであるよ。そして伴侶を失った妻たちが取る道は、ある種のモノノケとして「ネタ化」していくというものになるであろう(←ほんとかよ)。

【追記2】ジャニーズやAKB48が重宝されるのは「一組でたくさんの年少者を画面に登場させることができる」ということにあるのかもしれない。番組表で見てみると「昭和の世代ばっか」だけど、画面で見てみると「若者いっぱい」に見えるというこのトリック。

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