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男子の友情が、女子のドロドロを浄化する。三浦しおん『船を編む』レビュー

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三浦しおんさんの「船を編む」を読んだ。
いやあ、相変わらずの面白さだなあ…と読み進めているうちに、なぜかふと「作者の原風景」というものが見えてしまったので、レビューしておきます。

理想の男子像は、何を意味しているのか?

三浦しおんさんの小説の一番の特徴は「男子の友情の描き方」にある。

「船を編む」のテーマは「辞書の編纂」。
変人の辞書編集者の馬締(まじめ)青年が、先輩編集者や教授と20年近くかけて辞書を編んでいく、というストーリーに恋物語や男子の友情関係などが織り込まれていく。

でね。
この小説のなかで一番熱がこもっているエピソードが「変人の主人公、馬締」と「お調子者で器用な同僚、西岡」の関係なのね。
同僚の西岡は、ソツなく仕事もこなすし、人の機微にも長けている。だけど辞書の編纂室にいるかぎり、辞書をつくるために生まれてきた変人の馬締の脇役にしかなれないことに気づく。
当初は、西岡は馬締のことが理解できず、彼の足を引っ張ろうとしたりするのだけれど、結局は「アイツの夢を叶えてやりたい」と、馬締のニガテな人間関係の調整や仕事の整理をして、辞書編纂室を去っていく。

このなかで、三浦しおんさんは脇役である西岡の心の動きを微細に書き出している。
「理解できない変人」に自分が勝てない。それを認められない自分の弱さ。自慢の器用さが、自分のハードルとなっていること。馬締と向き合うなかで、彼は昔ながら薄々気づいていた自分の「オブセッション」を少しづつ言語化し、最後は「馬締の夢を叶える手助けをすること」に喜びを見出すようになる。

これは、三浦しおんさん自身がなりたくてなれなかった「ヴァーチャルな理想像」なのね。

最後にたどり着く二人の「男子」の関係は、とても「割り切れて」いる。
片方には人間くさいコンプレックスやプライドがあり、もう片方には常人離れした情熱がある。その正反対のキャラクターが和解し、二人は「ともだち」になる(←厳密には馬締はそんな風に思っていないかもしれないが)。

最後は、自分の弱さを乗り越えられる「はず」だ。
異質なものを認められる「はず」だ。

この「はず」が、作者がどうしても辿りつけなかった「理想郷」なのだな。

女子の「自意識のドロドロ」をいかに昇華するのか

馬締と西岡の、「すっきり割り切れる男子の友情」は、女子の「ドロドロに絡み合った女子の友情」と対置される。
三浦しおんさんの作品にはあまり出てこないモチーフだが、実はこの「男子の友情」は、女子のドロドロを浄化するために機能している。

本当は女同士でも、こんなふうに「スッキリと割り切れる友情」を結びたい。が、それは叶わない。

と、作者自身が感じているからこそ、小説のなかに登場する「男子の友情」はどこまでも美しく、暖かいものになる。「自分の人生において叶えられなかったもの」が、作品のなかで「美しい夢」として再現される。そこに芸術があると僕は思うのね。

さて。
では「割り切れる女子」は本当に存在しないのであろうか。

実は存在する。馬締のパートナーとなる、香具矢(かぐや)だ。
馬締の住むアパートの大家の娘で、ストイックに板前修業をする謎めいた美女なのだけれど。

馬締の同僚、西岡の心理描写の緻密さに比べて、香具矢の心の動きはほとんど記述されることがない。なぜ変人の馬締と付き合う気になったのか、よくわからないまま物語は進行する。

それは、かぐやが重要なキャラクターとして扱われていないということではない。
むしろ逆だ。

彼女は「内面のドロドロを持たない、奥行きのない女子」、つまり「作者がなれなかった、理想の女子」として描かれている。自意識の希薄な、透明な美しさをもった「非女子的女子」として。

ここで僕は(会ったことないのに大変恐縮ですが)三浦しおんさんの原風景をかいま見てしまった。
それは、教室のはしっこで自意識のドロドロと妄想を持て余している女子が、向かい側のはしっこに涼しい顔をして同じくひとりで座っている、胸にも足にも肉のついていない、(たぶんメイクも染髪もしていない)横顔のキレイな「あの娘」を見つめているという、「はしっこ to はしっこ」の微妙な機微なのであるよ。

そしてその憧れを直接的に表現するのではなく「男子の友情」に変換して出力するところに、三浦しおんさんの「卓越したBLマインド」を感じるのでした。

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