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夏の読書感想文。21世紀の民俗学、数学する身体。私小説の未来について

ツイッターで散発的につぶやいた読書感想文をブログにまとめなおしておきました。
夏の終わりの読書の参考にどうぞ。

21世紀の民俗学

畑中章宏さんの『21世紀の民俗学』を読む。
セルフィーとざしきわらし、事故物件と闇インターネットサイト、宇宙葬と野尻抱影のロマン主義と時代を超えた事象が「民族の感情」という紐で結ばれていく。

特筆すべきは各章の読後感。自分の感情が虚ろな空間にすっと消えていく不思議な感じ。
この本を読むこと自体が、妖怪に遭遇したような、狐に化かされたような「なんともいえない妙に乾いた心持ち」になる行為。引用や事実公証を淡々と積み上げているのに、まるで昔の怪談を読んでいるような感じになる…って、そうか!杉浦日向子さんの漫画『百物語』の読後感によく似ているんだ

最終章で畑中さんが民俗学の再定義をしているのですが、最大の焦点は「民俗を過去形として語るか現在形として語るか?」。
「過ぎ去ったものを保存・体系化する」という民俗学のアーカイブ性から一歩抜け出して、民俗を「今まさに生成されているもの」と見なす。

この視点は、僕が『発酵文化人類学』を書いた時の視点とよく似ていると思いました。発酵文化を「守り継承していくべき日本の伝統」と捉えるか「今まさにダイナミックに変わっている現在進行系のカルチャー」と捉えるか。僕が興味あるのは断然後者。僕にとって発酵は現在進行系カルチャーで、畑中さんにとって民俗もまた現在進行系カルチャーなのでしょう。

無線音響技術が進化することで、無音の盆踊りが生まれる。それを「不気味」だと片付けるのではなく「これはこれで風情があるのではないか。ていうかそもそも盆踊りって静かなものだったし」と捉え直す。これが畑中さん特有の「アクチュアルな視点」。僕が畑中さんの本を読んでいつも感銘を受けるところです。

数学する身体

ずっと読みたかった『数学する身体』を読む。
思った通り、というかそれ以上に素晴らしい本でした。「数学を読み解く本」というよりも「世界を数学という方法論で読み解いていく本」。数学の系譜を辿りながら人間の心の起源が解き明かされていく。視点はもちろん文章から湧水のように溢れる感性が素晴らしい。

「数学について知りたい」というニーズを満たす数学の本はたくさんあっても「自分と世界について知りたい」というニーズを満たす数学の本は稀有なのではないかしら。普遍性を持ち得る専門書は、その専門領域の窓を開けた先に「自分と自分の生きる世界」の景色が見えます。

「本を読む」という行為を突き詰めてみると「知識を得る」のその先の「自分のことを知りたい」という根源的な欲求があります。
その道に至る方法は主に3つあってだな。① 哲学というドアから入る ② スピリチュアリティというドアから入る ③ 各種専門領域のドアから入る の3つです。自己啓発本の大半は①のフリをした②で、比較的量産が簡単なヤツです(本気の①と②は書くにも読むのも気合がいる)。

しかしだな。まっすぐに「自分とは何か?」という問いに向かう道とは別に、全く別の山に登りながら、ある瞬間に「これはもしかして自分のことなのではないか?」と思わせる景色が出現する、という間接的アプローチがあります。これが③であり、「数学する身体」です。

「数える」「図を書く」「証明する」という具体的な行為を掘り下げるとともに、「わたしの心」のアウトラインが浮かび上がっていく。入り口は「数学」という専門領域ですが、その先の道は全ての人に開かれています。その事を直感できるセンスの人たちに広く読まれていく本なのでしょう。

さらにスゴいのは、実はこの本は作者にとってはまだ「準備体操」であること。チューリングと岡潔を語ることは実は森田さんにとっての「自己紹介」で、近い未来必ず「自己紹介は済んだので、じゃあ次行きましょう」というマスターピースが来る予感しかない。いやあこれは宝物のような才能だなあ。

私小説の未来について

こないだ甲府で山梨在住の小説家の荻原さんと「私小説を書くこと」についての話をした時に考えたことのメモ。

自分の体験を通して内面を掘り下げていく私小説というフィクションの様式は、SNSやブログにおいて完成したのではないかと僕は思います。「自己の心の揺れ動きがコンテンツになる」という点においてWEBは最強。江戸時代の小説は南総里見八犬伝や雨月物語のようなファンタジーですが、近代になってから「著者自身の体験から人間の内面を探索する」という私小説が日本文学の主流になります。

そしてその帰結はtwitterやブログなのではないかしら?人間の心理に敏感な感性は小説ではなくWEBに向かう。だから現代における私小説(が目指したもの)の王道は、はあちゅうさんのような人なのではないでしょうか。自分が何かを体験して、そこで感じたものがそのままダイレクトにコンテンツになる。その意味で、小説よりもtwitterやブログのほうが「私小説なもの」としてインターフェイスが優れています。

さて。
私小説の必然が崩れた時に「フィクション=小説を書く」行為がどこに向かうかというと「社会構造の死角を照らす」とか「民族や歴史の業を描く」という個人の身の丈を超えた対象に向かうか、ケータイ小説のような「泣けるツボを強制的に押しまくる」みたいなものに二極化していくのかもしれません。

「民族や歴史の業を描く」という小説の役割で言うとミラン・クンデラやアゴタ・クリストフのような亡命作家がヒントになりそうです。
両者ともに「生き延びるために母国語を捨てる」という決断をした上で「現実を虚構の下に隠す」という戦略を取りました。小説は自己表現ではなく止むに止まれぬ選択でもある。

大国から侵略を受けたり独裁政権がはびこる小さな社会から奥深いフィクションが生まれることがあります。これはノンフィクションを語ることができない止むに止まれぬ事情から、現実をフィクションに託さざるを得なかったということです。

小説を書くということは「なにかを隠す」という行為でもある。

直感ですけど、新世代の小説家はこれまでの私小説とは違うやり方で「歴史や民族の業」に向き合うことになるのかもしれません。過去に私小説という形式で「自分の物語」を語りたいという欲求はWEB界に移行する。それでも小説というフィクションを選ぶ人は何か別の使命を負うことになる。

…と考えてみると丸谷才一さんの『裏声で歌へ君が代』『輝く日の宮』なんかは、ものすごくアナクロなことをやっているようにみえて、実は近代以降の私小説のトレンドが終わった後のフィクションの先取りをしていたのかもしれません。その延長線上に村上春樹さんの『1Q84』のような世界観が出てくるのではないでしょうか?
(とか偉そうに書いてみたけど、僕さいきん全然フィクション読まないんです。誰か面白い小説をオススメしておくれ)

 過去と未来のキャッチボールについて

『21世紀の民俗学』や『数学する身体』にあわせて、安田登さんの『あわいの時代の論語』をもっかい精読。論語という古典を通してシンギュラリティや身体拡張性という現代的なテーマを重ねてくる視点もまさに「温故知新」。

過去と未来のあいだでキャッチボールをしながら「いま」があぶり出されていく。
これが読書をする醍醐味の一つ。

「いま」という時代を精度高く見るためには自分の生きている時間だけでは足りない。だから何百年も時間を遡ったり、未来を想像してみたり、さらに遡った時間と予測した時間を同じ定規で測り直したりしながら「いま」を逆算していく。

「いま」は生身の眼だけでは見えない。
だから未来と過去のレンズを使う。その時に本は優れたガイドになってくれるんだな。

 

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