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ドラッカーに見る全体主義の効用と、自由な社会の意味

不条理に思えることでも、ある種の必然があったりする。

クラシコムの青木さんから「これ読むといいよ」と渡されたドラッカーの本に、僕のここ最近の疑問の解答があった(ちなみに『経済人の終わり』→『産業人の未来』→『ポスト資本主義社会』の順で読んだ)。

前に社会は軍事社会独裁制に向かうと(なんとなく直感で)書いた。経済学者になる前の「哲学者としてのドラッカー」が1940年前後に見ていた世界観にヒントがたくさんある。

社会的人間の意味とファシズムの到来

1940年前後の欧米社会といえば、ファシズムの台頭だ。
ドラッカーは「なぜファシズムが隆盛するのか」ということを、他の哲学者とは全く違う視点から分析した。リアルタイムで書かれたにも関わらず、そこには現代でも色褪せない洞察力がある。

まずドラッカーは、ファシズムを「狂人によるアクシデント」とは見ない。むしろ「時代の要請」として見る。つまり「なるほど。よくできてるじゃん」とまずいったん積極的に評価する。

それはなぜか。
ヨーロッパ及びオスマントルコの人口の1割が死ぬような破壊的な戦争(第一次世界大変)の後、社会に2つの絶望が蔓延した。

ひとつは「民主主義への絶望」、もうひとつは「自由主義経済に対する絶望」だ。
前者は、何を信じていいかわからないという虚無を生み、後者は巨大な格差と失業を生んだ。
「自由とか平等とか博愛とかいったくせに、殺し合いすぎだし、経済崩壊しすぎだろ」と。

さて。そのタイミングで現れたファシズムは、実は「社会福祉施策」として機能したのではないか、というのがドラッカーの見立てだ。
ファシズム(当時はドイツとイタリア)の大きな特徴としては、

・全てにおいて軍事・侵略を優先する
・民間資本を著しく統制する
・具体的なビジョンはなく、既存の体制の批判をドグマ(教義)とする

あたりだ(ちなみにかの有名なユダヤ人迫害は実は最初からのマニフェストではなかった)。

ここでちょっと遠回りになるけど、ドラッカーの「人間観」をざっくりノートしておく。

ドラッカーは「人間には、それぞれに社会的な役割が与えられなけばいけない」と説く。自分が何に貢献できるのか、今やっていることの意味は何なのか。そこに答えが見つからない、あるいはやることが全然ないと、人は生きる価値を見出せなくなる

同時に「人間は、各々が自分の自由を責任を持って意思決定ができなければならない」と説く。社会的な役割を割り振られたなかで、自分なりの幸せを追求する。

時に矛盾するこの2つを、社会と個人がせめぎ合うなかで「自由な社会」が出現する。

しかし個人の自由を約束したはずの民主主義と、固定された階級から逃れて個人の可能性を追求できるはずの自由主義経済が崩壊してしまった(殺し合い、収奪し合った)。

「自由な社会」への理想が消滅した時に、ファシズムは人々の「希望のともし火」なのであるよ(←自分で書いていて恐ろしくなるが、先に進もう)。

ファシズムは人に居場所を提供する

ドラッカーはファシズムの効用をこう分析する。

国家を常時戦闘状態に置くことで、国民一人一人に「役割を与える」ことができる。戦場で戦う、兵器を作る、兵站としての食料を生産する、等など。自分の生きる意味がわからない!とかモラトリアムになることは許されない。

これはよくよく考えると「完全雇用施策」であることになる。

そして、民間資本を統制するとどうなるかというと、当然国内における経済の生産性が落ちる。その結果、消費が鈍り、国民が貧乏になっていく。「みんな貧乏になる」ということのしわ寄せは、金持ちだったヤツに行く。今まで社会において影響力を持っていた資本家や実業家の力が弱まっていく。

これもよくよく考えてみれば「格差是正」であるのだよ。

格差と失業に苦しんでいた人々にとってみると、雇用が担保され、今まで羨んでいたブルジョワが没落していくのだから、ファシズムに対して「よくやってくれた!」と溜飲を下げるのは必然。

事実、ナチスは社会の実権を握ると、会社組織とは別に党のコミュニティをつくり、国民全てにそこでの活動を強制した。そこで上長になるのは資本経済のなかで冷遇されていた単純労働者であり、中流階級以上のブルジョワの「いじめ」が推奨されていた(これは中国やカンボジアの共産主義の末路にも似ている)。

経済が下降していくなかで、官僚や議員の給料はどんどん高騰していく。これはつまり「資本主義的生産性なんてファックだぜ」というサインなのであるよ。それまでの社会の標準のモノサシであった「生産性」を処刑することで、ファシズムは新しい時代の到来を告げる。

既存の社会の枠組みと、階級がラディカルにひっくり返る。
これはつまり革命である、とドラッカーは定義する。

国粋主義や民族純血、マッチョイズムなど「保守的」な衣装をまとっていても、これは革命であり、既存の社会に絶望している民にとって「ガラガラポン」は悪くない提案だった。

カウンターではなく、クリエイション

「なるほど、よくできているじゃないか」とまず感心したうえで、しかしドラッカーはファシズムが長くは続かないことを予見した。そのロジックはこうだ。

・永遠に敵を作り続けなければいけない(外にケンカ売る)
・外部からの資源の調達コストが上がり続ける(外から嫌われる)
・経済が破綻し、戦争に負ける(負けたら終わり)

「外部からの資源調達」をボトルネックとするあたり普通の社会学的アプローチとかけはなれているが、これは実際正しかった。事実、ナチスは連合軍を始め世界の大半を敵に回したため、資源の調達のためにポーランドやウクライナなど東欧の侵略をせざるを得ず、戦争の収集がつかなくなった。

要は何が言いたいかというと、ファシズムは「長くはもたない」ということだ。
経済システムの限界、そして独裁者という「絶対的個」はいつか死ぬという避けられないシステム不備がある。しかもそこに、国民個人の自由や幸福の追求はなく、生活水準もどんどん下がっていく。

しかしなぜ国民はファシズムを支持するのか。

それは「代替案がないからだ」とドラッカーは指摘する。
ファシズムは、格差と失業に苦しむ民にとっての短期的なソリューションだが、長期的に考えると破滅が待っている。しかし、絶望に苦しむ民にとって「無いよりまし」だ。

「ファシズムは間違っている」と反対しても、状況を変えるのは難しい。なぜならファシズムは民にとって災害ではなく「ソリューション」であるからだ。

まずそのことを認めたうえで、必要なのは「あ、なるほど。そっちの方がいいわ」と思える長期的な成功モデルの構築である、とドラッカーは言う(そしてヒラクもそう思う)。

もう一度、個人の意志とオーナーシップに基づく「自由な社会のモデル」を提示すること。
それが、ファシズムを退けるための活路であり、機能しなくなった大きな行政や教会の代わりにモデルになるのが、企業やNPOなどの「オーガナイゼーション」である。

…ということに気づいたドラッカーは、哲学者から経済学者になった。ドラッカーのマネージメント論は、ビジネス論ではなく、無用な革命を防ぎ、社会を適切に統治するための理論だったのであるよ。

 

↓さて。ここから僕の意見。↓
1940年のドラッカー黎明期の思考がたどり着いたのは「自治」の必然性だ。
様々な目的のために経営される様々な組織の「小さな自治の相互作用」が大きな統治機関の圧政を防ぎ、社会に多様性と自由をもたらすと考える。

僕が直感で「豪族2.0」という概念を提唱したのは、まさにこの「新しいモデルの提示」と「多様な自治」の復活を願ってのものだった(ドラッカー読んでようやく言語化できた)。

これからもし社会が全体主義に向かうことがあるとしたら、それは邪悪な政治家や官僚の謀略の結果ではなく、その社会に住む人々の多くがそれを望んでいるからだと思ったほうがいい。
僕たちの心のなかに巣食う諦めや恐れの感情の連鎖が、一時しのぎの安心に身を委ねるという悲劇を生む。

そうならないためには、僕たち一人一人が創造的になる必要がある。
恐れていることを批判したり反対したりするだけではなく(それも必要なことだけれども)、望む社会をプロトタイピングすることによって、恐れを克服する必要がある。

僕たちに必要なのは、破壊的な革命ではなく、一人ひとりが自分の人生のオーナーとなるための「自由の復活」だ。

自分の場所で、自分の望む組織や事業をつくり、それを育んでいく。
それが今の時点でどんなに小さなものであっても、それは「自由な社会」の種となる最高のクリエイションなのであるよ。

絶望するにはぜんぜん早い。未来への舞台の幕が上がるのは、これからだ。

・キーワードは”豪族2.0″! これからは一旗あげるために地方へ行く。発酵デザイナー・小倉ヒラクさんが考える、今とこれからの日本のカタチ

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