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「私という物語」はシンプルで感覚的がいい。

“私がいつも私であるために、絶えず自分自身に「私という物語」を語り聞かせ続けなければならない。”

折々に思い返す、小説家ポール・オースターのこの言葉。

僕たちがかろうじて「アイデンティティー(自己同一性)」をつなぎとめていられるのは、毎日、毎朝毎晩、あるいは毎秒ごとに「ワタシはこんな物語を生きている」ということを、自分に絶えず語っているから。昨日の自分と明日の自分をつないでいるのは、今この瞬間に自分が自分に語っている「おはなし」なんですね。

さて。
そう考えてみると、もし「昨日と今日 or 朝と晩でするお話が違う」ことになると、自己同一性は分裂することになるし、「バッドな物語」を採用してしまうと、毎日毎朝毎晩毎時間毎秒「バッドな物語を演じる自分」という無限反復が待っていることになります。

どんな人生を生きるかは人それぞれ、なのですが。
自分としては、せっかくの人生、なるべく「グッドな物語」を胸に抱いて生きていくのがよかろうと思います。

では、なにが「グッドな物語」の条件になるのか、考えてみましょう。

「幼少期に親から可愛がられた」。
まずこれありますね。

「生まれてきてよかったね〜」と「よしよし」してもらうことで、「ワタシは社会的な必然性をもって生まれてきた」という、グッドな物語のベースが担保されることになります。精神分析学における「トラウマ」の概念は、ここに躓いたところから発生するとされている。
これがメンタルサイドね(ヒラクが言うまでもないことですけど)。
で、もう一つ大事な要素があると思うんですね。
それは感覚サイドです。
「真夏に涼しい風が吹いて気持ちよかった」、「家の窓から見えた夕焼けがキレイだった」、「畑から野菜をもいだときの土の匂いが忘れられない」、「海を泳いだ時の冷たさと景色を思い出す」…。
小さな頃に、身体と感覚を使って自然から感じ取った「センシュアル」なもの。これは、精神分析学的なものとは違う位相の「物語」なんだと思うんです。
この至極単純なイメージが、「自分という物語」の揺るがぬ根幹を成す。
というのもね、「マインドサイドの物語」って、年齢を重ねるうちに良くも悪くも「上書き」できちゃんですね。楽天的な人は、本当は親と仲悪かったのに「適度な距離感で接してくれるできた親でした」という認識になったり、ネガティブ思考にハマる人だったら、本当は親に愛されてきたのに「家族ごっこだった」という風に評価したりする。
対して、感覚はその感覚のまま「翻訳することができない」。
まるでDNAに刻み込まれているように、絶えずかつての印象的な風景や瞬間に、「まるでその時のように」立ち戻っていく(不思議なもんだね)。
僕は幸運なことに、かなりグッドな物語がプリインストールされている。
親から可愛がってもらったこともそうだし、ホタルが飛んでいたような東京の田舎(稲城)の山や川で遊んだり、佐賀の玄界灘で遊んだりしたことが、自分の揺るがぬ軸になっているのを感じる(しかも、年齢を重ねれば重ねるほどその感覚は確かなものになる)。
「自分に語り聞かせる物語」は、シンプルで感覚的で、そして人工物以外の色んなものが登場するおはなしが良いな、と思うのよね。

ほら、「ぐりとぐら」とか「がまくんとカエルくん」とか「となりのトトロ」とか。
だれも「一体自分は何のために生まれてきたのか…」なんて自問自答しないでしょ。「飛んだ―!気持ちいい?!」「お腹へったー!おいし?」「植物育った!たのし?」という世界で生きている。
いいよね。そういう世界。
もし僕が未来の世代に対して何か出来るようであれば、そういう物語を絶やさぬようにすることなのかなあ…と最近よく考えるのです。

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