▶レビュー

「必然」をカッコに入れる方法論

3連休の最終日は、山中湖のホトリニテへ。
山梨の一連のプロジェクトの今後を、宿主のナオくんと練る作戦会議をしに、極寒の山中湖へ。
川口の千木屋さんでのライブ帰りのミュージシャン、たゆたうとも合流。
これから始まる新たなオペレーション(内容はヒミツ)の話で盛り上がり、ワインが進むうちに「表現者のアティチュード」についての深淵な話になる(ナオくんも元ミュージシャン)。
お酒の場の話なので到底レジュメはできないんだけれど、その中で一つ考えたいことをお話ししましょう。
ヴァルター・ベンヤミンという哲学者の「パサージュ論」というヘンテコな本をご存知でしょうか。
論文というにはとりとめがなく、エッセイというには抽象度が高すぎ、詩集と言ってもよさそうだけど、まあざっくり言えばやっぱし論文、という不思議な形式で書かれた「19世紀末の文明のガラクタを徹底解剖」した社会学の大名著です。
この本の「読みかた」は十人十色にあるので、これもまた簡単にはレジュメできません。が、あえてヒラク的に要約するならば、「マイナスの唯物史観」というものを打ち立てた、というのがベンヤミンが達成したことだと思います。マルクス主義のベースになっている唯物史観「世の中には見えない系譜というものがあり、その必然の糸に導かれて階級なり経済の生産様式が生まれてくる」という考えをまったく逆の方向に反転させたのが、このパサージュ論の根底を成す発想です(と断定するけど、専門家の人、お手柔らかに)。
この本の舞台となるのは、「19世紀のパリ」。20世紀から19世紀の時代を遡って見ることによって、ベンヤミンは歴史の舞台から「消えたもの」、つまり「うまく行かなかったもの」「負けたもの」の残骸をリサーチし、遡及的に「ありえたけど、実現しなかった歴史の可能性」を逆照射します(一瞬流行ったけどデコりすぎてすぐ時代遅れになった建築様式とか、映画に負けて退場したパノラマ技術とか、あるいは一瞬だけ成り立ったけどすぐ瓦解したパリ・コミューンとか)。
「パリなんて知らねえよ」という人、こういう例えでどうでしょう。2013年の今から1980年代のバブル時代をレトロスペクティブに眺め「ワンレン・ボディコン・アンコンジャケット」や「新入社員の昼食がうな重」とか「新宿駅でタクシーに乗ったら『八王子より先に行かない奴はお断りだね』と言われる」とか「純金のトイレ」とかに社会学的考察を加えることによって「ドバイ?むしろ日本っしょ」という日本の「ありえるとみんな思っていたけど、実現しなかった歴史」を考えることによって唯物史観の提出した「歴史の必然性」を解体しようとするラディカルな方法論、それが「マイナスの唯物史観」であると(すいません、著しく句読点が少ない文章になっちゃった)。
でね、長くなったけどこの話はマクラ。
本題は、「表現者のアティチュード」って話なの。
ミュージシャンでも画家でも詩人でもいいけど、表現者にも確実に「世代における傾向」が存在しています。で、ホトリニテで話したのが「2回りくらい上の世代には、オンとオフの切り替えのないアーティストが散見される」という現象です。つまり、「24時間芸術家」「私という文脈」「オレという空気を読むべし」という、「表現者というと、ひたすら天真爛漫でゴーイングマイウェイである」的な世界観を体現する人がけっこういるし、リスペクトされている。でも面白いことに、その下の世代になると、ゴーイングマイウェイ型より「むしろ普通のヤツより場の文脈を読み、オンとオフのスイッチを高速で入れ替えてくる」ヤツにほうが著しい活躍を見せたりします(客観的な統計ないから僕の私見ですけど、たゆたうのあっこちゃんとかアサダくんとか、CHIM↑POMの卯城さんとか)。
そんで、ここからがなかなか言語化しづらい所なんですが「表現者とはかくあるべし」という先入観が、若い世代にも見えない空気のように蔓延しているんですよ。それはもう、言語化できないほど無意識に刷り込まれている。「24時間全身全霊で芸術を体現すべし」「常に自由奔放であるべし」ってな「べき論」が、岡本先輩とか、荒川先輩とかが「オッス!トン子ちゃん」みたいな感じで無意識のなかからずずずっと迫り出してくる。別に表現の領域だけじゃなくて、色々あるでしょ。帰国子女の人と話すと「外国語(だいたい英語とイコールだけど)及びインターナショナルな文化様式を己のものとすべし」と思わずコンプレックス感じちゃうとか、商社とか大手広告代理店に就職した先輩と話すと「やっぱり明確な目標を持って、自己実現を果たさねば」みたいなふうにかしこまっちゃうとか。これって僕からするととても「唯物史観」的な現象だと思うんですね。
つまり、「これは必然である。なぜならば、それが現在において(あるいは近未来において)歴史的に実現されているからなのである」という感じで、それはそれで正しいところもあるんだけど、ともすると「オレにようにやれ。なぜならオレは成功したからだ」という脅迫になってしまうことが往々にしてある。
さて、そういうオブセッションに苛まれた時に、ヒラクの無意識という仄暗い地底湖からずずずっと登場するのが、ベンヤミン先輩なのです。
「遡行せよ。さすれば『ありえなかったもの』を現実に召喚することができる」
と、怪しげなアドバイスをなさって、先輩はまた地底へとお帰りになります。
「24時間全身全霊で私という文脈」で表現者が存在できる社会環境とは、そもそも何か。さらにいえば、「そういう風に存在できなかった時代」があったのか、それとも「ずっとそういうもの」なのか?
そして過去の歴史のアーカイブからソースを引っ張ってくることになります(で、最近気になっているのが、中世の同朋衆というアートディレクター集団。時代を読み、河原乞食たちをまとめ、権力者にネゴしながらイノベーションを敢行したタフな奴らです)。
「遡行する」とはこのような思考様式です。「これが必然だ」という「前提となる共通認識」を戦略的に脱臼させる。「これが必然だ」を「これが必然であるという風に後付けすることによって、自分の作ったゲームのルールで他人に勝ち続けたいから乗っかれコラ」と読み替える(意地悪な読み替えだな)。
パサージュ論で「19世紀のガラクタ」を徹底的に考察したベンヤミンがたどり着いたのは(ここから先は僕の自説ね)「20世紀のスタンダートも大半ガラクタになる」ということです。つまり、「このガラクタも19世紀の時点ではみんなが必然であると感じていたものだった」から、「現代文明を構成するものは、本質的に幻想なのである」という透徹した認識に立つ。そうすると、いかに科学的な手法を駆使したかに見えるマルクス主義の「唯物史観」も、勝ち組エグゼクティブと同じ「結局これが歴史の行き着く必然?ていうヤツ?だからお前もこのボードの上に乗れ」という「ドヤ顔のゴリ押し」であることも許されてしまう。
であれば、唯物史観をハッキングすることによって「必然という認識を後付けで出して、『特殊解』を『一般解』のように見せかけるトリックを思わず繰り出してしまうという歴史の必然」という一周まわったウルトラCを出してドヤ顔に冷水ぶっかける。これが「宿命的に滅亡することが必然」という烙印を押されたベンヤミンの大技だったわけです。
まあ僕はそこまでシリアスな窮地にいるわけではないのですが、このベンヤミン先輩の方法論は大いに学ぶ必要があると思う。というのも、19世紀の近代的な資本主義の枠組みが解体したときに、無数の「必然」が陳腐化したように、20世紀の地球規模のマス・インダストリアルな資本主義の枠組みが解体したときに、同じく無数の「必然」が陳腐化する。
この過程で起きるのが、終わりかかっている側の人たちが「お前たちは必然から離れている。ここに戻れ」としつこく呼びかける、という現象です。そのときに、始まりかかっている側の人たちはどうするか。一つは「無視する」です。しかし、時には利害関係が重なってしまうときがある。そういう時に必要になるのが「必然は、必然を成り立たせていたものがあった(今それはかなりヤバい)」という論理的な説明です。
さて、ここでもう一つ考えることがあります。
それは「どんなタチの悪いおっさんがそんな露悪的な引き止めをするのか」ということなんですが、この答えは恐るべきことに「自分のなかにいるおっさん」なのですよ。
「24時間自由奔放であれ」「国際的(てかアングロサクソン的)人材になれ」「自己実現せよ」。
ドヤ顔でそれを言ってくる困った人たちはまあテレビとかでは出てくるけど、そんなに露骨な人は周りにはあんまりいない。物理的にはいないんだけど、その人たちの「呪いのつぶやき」のようなものが自分の潜在意識のなかに蔓延している。始まりかかっているもののなかに、終わりかかっているものが巣食っている。
だからややこしい。「あの金持ちで傲慢なおっさんさえやっつければ」というわかりやすい道は選べない(選んでもいいけどたぶん徒労)。
問題は、いかに自分にかかった呪いを自覚して外すかという「思考の方法論」なのですよ。
ああ、長文を書き連ねるうちに話が変な方向へ行ってきてしまった。
「表現者はこんなアティチュードでなければいかん」という考えかた自体から自由になることが、「表現の自由」にリーチする方法ですよね、というお話なのでした>あっこちゃん、ヒロちゃん、ナオくん

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