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「今、ここにあること」と「いつ、何時も普遍であること」のあいだ。

ハンガリー・ブダペストからイギリス・トットネスへ。
森のなかにある小さな学校、シューマッハカレッジで合宿をしているのだぜ(その様子はまたレポート予定)。

で。ブダペストでは朝から晩までサイエンスの世界に没頭し、トットネスでは哲学とスピリチュアリティの世界に没頭している。
意図していたわけじゃなかったんだけど、この組み合わせは最近の僕の問題意識にフィットするものだったので、ツイッターのつぶやきをブログにまとめておくことにする。

以下、哲学と科学の関係性について。

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サイエンス(生物学)の世界は基本的に「実証可能」や「再現性」が担保されていることが前提。昨日できたことが今日できなきゃダメだし、僕はできたけど他の人ができないというのは許されない。

一方、哲学やスピリチュアリティの理屈はその逆で「今この瞬間」「他でもない私」こそが意味がある。つまり真逆。

サイエンスでは、自然の生み出す現象を、「なぜ?」という問いを棚上げにして、客観的に観察し、仮説を立て、実証する。しかし人間はマシーンではないのでついつい「なぜ?」と問うてしまう。その答えは、原理的にサイエンスではなく哲学的方法論に委ねられる。「なぜ?」と問うのは他でもない私だからだ。
さて、「サイエンス」と「哲学」あるいは「スピリチュアリティ」というのはもし塩梅よくマッチングすれば有意義なのだろうが、ほとんどの場合どこかネジの外れた結合になって「疑似科学」になる(唯一絶対の真実の証明を科学的知識で補強する)。
つまり、持論に対して突っ込みを入れさせないための道具としてサイエンスを持ち込むという、中世の博物学者のようなスタンスに後退してしまう。

だから優れたサイエンティストは「哲学」に対して距離を取る。

シャクトリムシが、からだをクネクネさせながら前進するのは、神がシャクトリムシに恩寵を与えたからではないし、虫自身がシャクトリムシ界を啓蒙しようとするわけではない。大事なのは、いったん「ついついシャクトリムシの気持ちを代弁したくなる衝動」を抑えて、まず冷静にそのメカニズムを分析し、意味ではなく機能を証明することにある。

これがデカルトやニュートン以降の科学の基本的骨子だ。

サイエンスの世界においては、科学がもたらす技術それ自体に意味はない。乳酸菌を使って腸内環境を変えることも、光速の乗り物をつくることも、ものすごい威力の爆弾をつくることもそれ自体に意味はない。

「意味がない」とか言うとけなしてるみたいだけど、そうではなくて。人間はとかく何でも意味を見出したがるので、科学は「あえて」意味を設定しない。自然という、人間の先入観を超えた現象にアプローチするには「私は〜」という視点を棚上げにしなければいけない

このアプローチのシフトチェンジが、近代以降の科学の最大の発明だ。

しかし、意味を持たないものは人間の社会において運用できないそこで科学に意味をもたせる機関が必要になる。通常それは国家とか企業とかが特定の利害関係のために意味付けする。「儲かるサプリメントにしよ」とか「敵兵を殲滅する兵器にしよ」とか。

科学者が一度「私はこう思う」というビジョンを棚上げにしてテクノロジーを追求した結果、逆説的に科学が特定少数の目的に独占利用されるようになった。

この不均衡、ねじれの関係を是正するには、何が必要なのか。
哲学やスピリチュアリティが本来持っていた「今、ここにあること」という、BE HERE NOWな方法論が期待されてしかるべきなのであるよ。

「そもそもそれ、ほんとに必要?」とか「そもそもお前だけが独り占めにするの、まずくない?」という「そもそも論」は、組織や国家のポジションにとらわれない、KYかつ思慮深い「哲学者」にしかできない仕事だ。

しかし現代の問題は、科学も哲学も各ジャンルの文脈理解のハードルが異常に高まったこと。
「20世紀フランス哲学」とか「野生酵母の分離培養」とか細分化された領域のアウトラインを抑えるのに研究者の人生の大半を傾けているうちに、「哲学が科学の適切な意味付けをすることができない(←時間足りない)」状況が生まれる。

哲学が自身の細分化された領域をカバーするのに時間を費やしているあいだに、科学は元々のミッションだった人類共通の資産としての役割を果たすことができす、特定少数の独占資産になる。

「誰かが独り占めしているらしいこと」に対して、独り占めできてないヤツが不安になるのは当然。哲学者や宗教者がやらなければいけないことは、囲い込まれた知の資産をオープンにして、人間の社会において機能する意味や価値を吹き込むことだったはずだ。

科学と哲学は「意味」をめぐってコインの裏表のような関係性になっている。お互いがお互いを牽制しながら、人間の知の資産が積み上がっていく仕組みになっている。目で音楽を聴くことができなくて、耳で絵画を見ることができないように、異なる役割が割り当てられている。

今もっとも難しいタスクは「テクノロジーに適切な意味=ビジョンを与える」ということなのだが、現時点でそれができそうなのはアーティストかデザイナー(あるいはその能力を持っている経営者やサイエンティスト)な気がしている。

「今、ここにあること」の意味を、この複雑な社会において再定義するのは難儀な仕事だ。しかるに、残念ながら哲学者の復権はまだ時期を待たなけれないけないだろう(たぶん)。

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