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風立ちぬを見て〜映画にとって愛とはなにか。

kaze

宮崎駿さん監督の映画「風立ちぬ」について。

すでに見た人も多いと思うのですが、いかがでしたか。

僕はこの映画を見ながら、大学のときに見た「往年のクラシック映画」の数々を思い出していました。「カサブランカ」だったり「ローマの休日」だったり、フェリー二やブニュエル、溝口健二の映画だったり、TSUTAYAの「名画コーナー」にあるような映画です(同じ印象を受けた人も多いと思うんだけど)。

で。なにが言いたいのかというと、「この映画は歴史に名を刻む名作だ」とか、「懐古主義の映画だ」とかいうことではなくて。「かつての映画に特徴的に見られるモード」によって生み出された映画なのではないかと思ったんですね。

それでは以下、ヒラクが映画館で感じたことを記しておきます。

映画の「本質」とはなにか。

これ、答えから先に言います(あくまで私見ですが)。「画面のゆらめき」と「役者の色っぽい仕草」なんですよ。それは必ずしも派手なSF効果とか、セリフ回しとかではなくて、もっと言えば「深みのあるストーリー」とか「社会に投げかけるメッセージ」ですらない。

樹々からさしてくる木漏れ日の柔らかいコントラストだったり(ルノワールの「ピクニック」)、切ない男女のキスシーン(「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーンだッ!!)が、「映画でしかできない恍惚感」を観客に味わせせてくれる。
はいそうです。二郎くんが森を散歩するシーン、そして山を降りてきた菜穂子さんを二郎くんが迎えに行くシーンがまさに「往年の名画」的モードなんですよ(二人の結婚式シーン、菜穂子さんの幽玄な花嫁姿はまるで溝口健二みたい)。

「ストーリーの伏線」としての風景ではなく、「映画の本質」としての風景

これが映画が小説や演劇と違う最大の要素なのです(木漏れ日の暖かさを視覚的に表現したり、キスシーンがいきなりドアップになったり)。

なので、いかに「風景」を切り取り、息を吹き込むかということが「映画の質」に直結してくるわけです。ではさらに、テクニカルなところから「風立ちぬ」を見ていきましょう。

「モーション」に生命を与える。

この映画で頻出するシーンに「飛行機が空を飛ぶ」というものがあるのですが、これが普通じゃない。

じゃあ普通は何なんだって話ですが、「飛行機が空を飛ぶ」というシーンを描くときに、2通りの方法があると思うんですね。一つは「飛行機が飛んでいるモーションを描く」ことで、もう一つは「背景のモーションを描く」です。ほとんどの場合、この2つのどちらかに力点を置いてアニメーションをつくる。

ところが、「風立ちぬ」は、二つとも異常なまでに緻密にモーションさせているんです。

飛行機の翼がしなり、機体の金属がきしみ、パイロットの服が風圧を受けてはためく。その背景では、田園の草がたなびき、海がさざめいている。

ここまでモーションを突き詰めることで何が生まれるかというと、圧倒的な「飛ぶことの気持ちよさ」なんです。ここでも「ストーリーの進行」よりも「絵が動くことの気持ちよさ」が優先されていくわけです(このあたりは実写が再現できない、「アニメーション表現の強み」ですね)。

そしてもう一つ見逃せない要素が「煙」です。

煙草を吸うシーンや、機関車や飛行機のエンジンや翼から立ち上る煙。これも「往年の名画」の特徴的なモードなんです。これはどういう効果をもたらすかというと、「画面のゆらめき」に奥行きを与えます(特にモノクロ時代の映画にとっては非常に重要な要素だった)。想像してみてください。機関車に乗っているシーンから、煙を無くしてみたとしたら。ベランダや窓際に座っている二郎くんから煙草を取り上げたとしたら。

そうなんです。絵として間が持たないし、リズムが出でこない。煙のゆらめきやレイヤー効果は、DJにおける「イコライザー」であり、曲と曲(場面と場面)をつなぐツールなんです。

こういうツールを使って、セリフで説明するのではなく、様々なモノのモーションを重ね合わせることで物語を語り、そしてそれは映画でしかありえない「至福のグルーヴ感」に満ちている。

リュミエール兄弟が「列車の到着」を撮ったときに生まれた「絵が動くことの驚きと快楽」がこれでもか!と詰め込まれているのが「風立ちぬ」の魅力だと僕は強く思うんですね。

映画の美しさは「メロドラマ」に宿る。

ヒラクの大学時代。映画批評の講義でコマツ先生が言った忘れられないセリフ、「映画はメロドラマでいい」。
映画を研究しまくった果てに辿り着いた結論が映画に奥深いストーリーはいらないだったそうです。「街の灯」「道」「アニー・ホール」…。そう言われてみれば、名画の構造を分析してみれば「単純なロマンス」だ。ロマンスじゃないにしろ、「東京物語」も「スティング」も単純明快。

「風立ちぬ」も構造を取り出してみれば至極シンプル。飛行機好きの少年が、夢に出てきたイタリアの伯爵に導かれて戦闘機の設計家を目指す。その最中に淡いラブロマンスがあって、主人公がひとり生き残る。速攻でレジュメできます。そして、セリフ回しもシンプル。日本語中級の外国人だったら理解できそうなほど文法が単純です。そして、ロマンスの紆余曲折も単純。

二郎「今から結婚します!」
黒川「わかった。では結婚式の用意をしよう」

…展開はやっ!

小津の「秋刀魚の味」で笠智衆が「なあ、良いじゃないか。お見合いしてみろよ」と岩井志麻に声をかけた次のシーンがもう結婚式、という超速の展開を思い出しました(そういえば二郎さんの声のトーン、笠智衆っぽいな)。「嬉しい」とか「悲しい」とかいうリアクションもまったく屈託なし。深読みしたり、勘ぐったり、ウラのウラを読んで一周回る…みたいな複雑な感情の動きはない。

しかし!深みのある心理描写は、名画の条件には関係ないのですよ。
主眼は、画面のモーションと色っぽい主人公のロマンスの美しさなのです。そこにフォーカスする集中力が削がれるぐらいなら、こざかしい心理描写やセリフはバッサリ落としてしまう。これも「映画の本質」を抽出させるためのいらないものを削るテクです。
「好きだ」と言ったらためらわず熱烈なチューで万事OK。だって、美しいんだもん
さて、そんな風にストーリーを作りこんでいくとどうなるか。
当然、それは俗で複雑な浮世から離れた「おとぎ話」になります。「映画はメロドラマでいい」という考えはつまり、「映画、それはおとぎ話なのだ」という定義に行き着くのです。

映画の理想は、「美しいの夢」の追求ではないか?

今や映画館に行って映画を見るのは「インテリな楽しみ」になってしまいましたが、かつてテレビが無かったころ(1910〜1950年ぐらいまで)、映画は「みんなのエンターテイメント」でした。セリーヌの小説「夜の果てへの旅」のエピソードに、ヨーロッパから逃亡した主人公が移民たちと一緒に映画館へ通うシーンがあります(たぶん。作品違ったらご指摘ください)。
そこで上映される映画は、わかりやすいメロドラマだし、移民でもわかるように言葉も単純。そこでは、映画は「日々の辛さを忘れさせてくれる一時の夢」です(サタデーナイトフィーバーみたいだな)。今では考えられないほど過酷な現実から逃れられる数少ないチャンスだったのです。

僕たちが「黄金期」と呼ぶのは、そんな時代の映画。映画が「美しい夢」だった時代です(革命期のロシアを除いて)。人々に美しい夢を見せたり、危機一髪のスリルを味あわせたりするために、映画はその技術を磨いていった。

「風立ちぬ」は、そんな時代の残り香が漂う「クラシック」。ヒラクはそう思いました。
それは「歴史に残る傑作」ということではなくて。
「人々に美しい夢を見せるための装置」という地点まで原点回帰した、文字通り「古典」の系譜に連なるものが現代に生まれたことに意味がある。

「飛行機作りは美しい夢」。そして、
「映画作りもまた、美しい夢」。

二郎くんがそうしたように、スタジオジブリもまた、テクを駆使して「映画(アニメ)でしかできない恍惚」をつくり出した。
いやほんと、いい夢見たぜ。

【追記】本文の主旨とは外れてしまうのですが、ちょっと独り言。
「戦争」「関東大震災」「日本のアイデンティティー」みたいな要素って、ヒラクとしては「この映画の本筋とはたいして関係ないのでは」と感じました。そこに深読みする要素はあんまり無くて、主眼は「風にたなびく飛行機の美しさ」と「二郎くんと菜穂子さんのロマンス」にある。だから、一見悲惨に見えるラストシーンがあれだけ爽やかだと思うんですよね。

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