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類型と元型【後編】

誕生日エントリーを挟んで、前々回の話の続き。
河合隼雄さんの話の聴き方はとても独特(精神分析学者らしいとも言えるか)で、基本的には「否定」をしないんですよ。かといって、スピリチュアルがかった全肯定(全てはつながっているんですとか、許されているんですとかみたいな)もせずに、「あ?、そういうこともあるんですね。へ?、面白いですねえ」みたいな感じで基本的には感心しているだけというか。
最初、ヒラクは「病気を治す専門家としてはそれはいかがなもんか」と思っていたんですが、実はこの姿勢こそが「プロの真骨頂」なわけです(ビックリ!)。
人の強迫観念や不安の原因を考えていくと、心の問題というのは目に見えないからこそ、必要以上に「巨大なものだと思い込んでしまう」という傾向がある気がします(その逆もあるけど、それはあんまり病にはならない)。つまり、「?すべき」とか「今すぐなんとかしなければいけない」とか「◯◯だから自分はダメなのだ」という風に、自分のことを過剰にネガティブジャッジしてしまう。
その時に、「◯◯すれば全て解決です」という回答だと、一瞬はいいんだけど、逆に「ソリューション依存症」になってしまう(ドラッグみたいね)。「大丈夫です。私はすべてわかっているんです。」という回答だと、それは新興宗教みたいな領域になっていく。
どちらにしても、「自分で立ち直ること」はできない。
で、河合さんの戦略はどうなのかというと。
「◯◯でなければいけない、ということでなくてもよくない?」
「実は今の状態は、そんなにひどくもないんじゃない?」
みたいな感じで、「あなたが立てている問題は、本当に問題ですか?」みたいなコミュニケーションを仕掛けてくる。
これって、デザインの現場でも有効なときが多々ある。
「制作物によって見え方がバラバラで…」
「もっと高級感のあるブランドイメージに…」
という「問題」に対して、「じゃあ統一感のあるデザインを作りましょう」という流れもあるけど、 「見え方がバラバラでなぜ問題があるのでしょう?」「ファンの人たちは高級感を求めているのでしょうか?」という問いもまたあってもいいと思うんですよね。
だって。企業でも自治体でも、それぞれ個性あるもん。
答えはその組織や地域の数だけあってもいいじゃん。
と思ったりするわけです。
なので、その先にあらわれてくる問題が、「どうしてそれを課題だと過剰に思ってしまうのか?」という、一段掘り下げた問いになっていくわけです。
「痩せてスタイルがよくなったら幸せになりますか」
「高級感が表現できたら幸せになりますか」
そういう問いです(一応補足しておくけど、痩せることや高級感が悪いとかいうわけじゃないのよ)・
さて、話はちょっと変わって。
ここでようやくタイトルの「類型」と「元型」のお話をしたいと思います(長すぎるマクラだぜ)。
河合隼雄さんの師匠(直接じゃないけど)であるユングの著書(どの本だか思い出せないので、知っている人教えてください)に、こんな話が出てきます。
ユングはかの有名な「集合的無意識(民族共有の潜在的イメージ)」を発見する過程において、たくさんの精神病患者の話を聞くわけですが、そのなかでたくさんの「神話的イメージ」が出てくるんですね。「ペニスのような太陽が空に浮かんで風に揺られている」みたいな。
で、たくさんのそういう神話的イメージを整理して、パターン化していくわけです。その中から、「共通点のないAさんとBさんとCさんが共通で見たイメージ」に対して、個人の人生を超えた「集合的無意識」みたいなのを定義していくわけですが、よくよく読むとそこまでの舞台裏が面白いんですよね。
ユング曰く、「神話的イメージの大半は、子供のときに読んだ娯楽本とか、流行りの広告の変型として出てくる」というわけです。つまりは、「すでにメディアによって流通されたイメージやキャッチコピーのその人なりの焼き直し」であるというわけです。
受け身で認識したイメージが、自分のアイデンティティの基底となるということです。
10代の頃に読んだライトノベルや、アイドルのPVが「自分という存在の基底となる」と言い換えてもいいですね。学園祭の前夜に感極まった高校生が、「すげー、なんか金八先生みたいじゃね?(もうそんな世代じゃないかしら)」と言ってしまうのにも似てます。
で。
そういうものに対してユングは冷酷にも「つまんね」と言い放つんですよ。
精神を病んだときに、人は魂の奥底にある野蛮な創造性を解き放つのではないかーというよくある仮設に対して、「違うね。出てくるのはきゃりーぱみゅぱみゅの劣化版だよ」と断言するわけです。
しかしそれでも忍耐強い精神分析学者。そういう99%がきゃりーぱみゅぱみゅの劣化版であることを承知のうえで、あきらめずに話を聴き続けるわけです。
そうすると、ごくごく稀に「あっ、これって…なんか深いかも」みたいなイメージに遭遇する。
「魂にメスはいらない」の例でいうと、「大災害のあとに、カラスがいなくなる」という現象に対して、「カラスがお坊さんになって、死者の魂を鎮めにいった」ということを、シチュエーションに違う複数の人が同時期に言い出す、というものです。
なぜかわからないけど、日本人だと「うん、それは納得できる」みたいなイメージです。
きゃりーぱみゅぱみゅ劣化版を「類型」、
そして、お坊さんになったカラスを「元型」と定義してみましょう。
精神分析の治療過程というのは、99%の類型のなかから、あきらめずに対話を繰り返し、1%の元型を取り出していくような作業だと思うんです。
一見、どっちも似ているんですよ。でも「リーチの深さ」が全然違う。
谷川さんの広告文が出た後に、たぶん色んなコピーライターの人が変型をつくっただろうと思うんですが、大半は「類型」だったと思うんですよね。「元型」にはなり得ていない。
河合隼雄さんの対談本には、小説家の村上春樹さんとの共著もあるんですが、この本でもこの「類型」と「元型」みたいな話が繰り返し出てくる。
村上春樹さんの文章も、一見平易で神話的だから「雰囲気だけ」みたいな、「ちょっとセンスの良い素人ママが趣味でつくる絵本」みたいな体のものと「よく似ている」、けど「リーチが全然違う」わけです。
デザインを考えるときに、たまに考えこむことがあります。
「類型」ってすぐに思いつくので、最低限のセンスがある人は、「類型」を意図的に避けようとする。
じゃあどうするかというと、「変わったもの」「意表を付いたもの」「着想が複雑なもの」を考えようとする。そうすると、個性的なものはできるかもしれないけど、果たしてそのプロジェクトの持っている根本的な「課題」に対しての誠実な答えになり得るかどうか、リーチの深い表現になっているかどうかというと、わりに「はてな?」だったりするわけです。
そうするとね、一周回って「類型」をじっと見つめる、みたいな根気強い作業が必要なんじゃなかろうかと。
キレイ事も正論も恥ずかしがらずによく見つめてみる。ありきたりなことを「はいはい」とすぐに投げ出さない。
類型から元型を取り出す。
そのための目と耳と心を研ぎ澄ます。
そういうプロフェッショナルになりたいぜ。

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