BLOG, ▶はたらくこと、生きること

運命を克服しようとするひとの人生は、ゆるやかに腐る。

こないだ糸島でゲストハウス運営しながら狩猟やってる友だちの千春ちゃんと、トークイベント出演後の打ち上げで「運」について話したときに考えたことのメモ。

この世の中には「運を天から授けられている人」と「運からスポイルされている人」がいる。
「証拠を見せろ」と言われても困るのだけど、確かに「運を引き寄せられる人/逃し続ける人」というのが存在している。

で。
千春ちゃんはどう考えても「持ってる人」で、それははじめて会って話した時から感じた。
「持ってる人」は懐疑心からくる「黒いモヤモヤ」がなく、良くも悪くもすこーん!と突き抜けている。どんな失敗をしても、トラブルが起きても、自分がくじけなければ必ず良い状況を引き寄せることができる。人生を通してそう信じているので「持ってる人」はポジティブなグルーブ感を常時キープしている。

しかし、世界は驚くべき多様性に満ちているわけで、なぜかここぞ!という時に限って流れに見放される「運の悪い人」もいる(詳細は語らないけど、なんとなくわかるでしょ)。

日々色んな人に会うなかで、ごくたまに「運の悪い人」が「高い社会的能力をもっている」というヒジョーに難しい組合せを見ることがある。
恐ろしいことだが、かなりの確率でこの「運の悪いデキる人」は自分で自分の運命を腐らせていくことになってしまう。

それはなぜか。
まず前提から話すと、この社会においてナイスな人生を送れるかどうかは運>能力という図式になっている。

この前提を自明とするかどうかは、自分の能力の多寡を「コンプレックス」とみなしているフツーの人と「自分のアイデンティティ」とみなしているデキる人によって違う。

後者の多くの人は「自分の望む人生を謳歌できるかどうかは己の能力次第だ」という世界観で生きている(最低限運に見放されてなければそれで正解なのだが)。しかし「運」という要素を見て見ぬふりをしているうちに、本人の世界観と現実のギャップが広がっていく。

この「広がっていくギャップ」が、本人が使う言葉のニュアンスに出る。
具体的に言えば「自分の能力について20%くらい盛った評価で語るが、同時に自分の語っていることを心のどこかで信じていない」という矛盾がニュアンスに出る。
虚栄と虚無という2つの極で、その人の言葉(とたぶん感情も)が微妙に揺れ動いているうちには「微妙な腐りかた」。で、明らかに揺れまくっているのがわかると「かなり腐っている」ということになる。

さっき「持ってる人は猜疑心からくるモヤモヤがない」と言ったが、その「猜疑心」がこの「虚栄と虚無の揺れ動き」のことだ。

この猜疑心メーターがある程度のところまで振り切れた時、「デキる人」は1つの冒険に出る。それは「自分の運命を克服するための旅」だ。自分の社会的能力への信用と、社会における自分の立ち位置を釣り合わせるための賭けに出る。

それはどのような賭けかというと「表現者として自分の人生を精算する」というグレート・ジャーニーだ。それはもしかしたら本当に「世界一周の旅に出る」ことからもしれないし、文字通り何か表現することかもしれない。

この賭けは「自分の運命を自分の手で書き換える」ことを目指している。
今までの不遇は必然であり、それを乗り越えることでオレの人生は価値を取り戻す。そしてそのプロセス自体が表現物として社会に認められることで、運命はオレに微笑む…という段取りだ。

しかしそうだろうか。僕はそうは思わない。
運命は自分がコントロールできるほどやわなものではない(ていうかコントロールできないから運命と呼ぶ)。己の運命という燃え盛る炎に向かって表現という矢を放っても、何も「射止める」ことはできない。

何かを変える強いメッセージやアクションは、己の内省から生まれたとしても、そこを突き抜けて他者という「具体的な的を射抜く」ためのものだ。「己の過去」に向かって当たらない矢を放つうちに、その人の人生はゆるやかに疲弊し、腐っていく。

自分の運命を救おうと思ってあがく人は、その徒労の先に「信じていたはずの自分の能力への絶望」を見るかもしれないが、実はそうではない。
「残念ながら自分は運を持っていない」という諦めを、「能力をもっている人」はなかなか持つことができない。

(なんかヘンな内容のブログになってしまった。汗)

Pocket


【CONTACT】お問合せはこちらからお願いします。

お名前 (必須)

メールアドレス (必須)

お問合せ内容 (任意)


※送信する前にこちらをご一読ください→

メッセージ(任意)