▶デザインを掘り下げる

読みやすさについて再考

お暑うございます、ヒラクです。
三連休、皆様いかがお過ごしですか?僕は一日の出張を除いて、工作室で黙々と仕事をしています。
以前、「読みやすさと、わかりやすさ」という記事を書いたのですが、最近考えをさらにアップデートしました。
今回は、「読みやすさ」に絞って話をしてみたいと思います。
というよりも、「わかりやすさ」については、読む人ひとりひとりとの関係性が入ってくるので、実質上僕は「何もできない」ということになるのです。
なので、書き手が考えられるのは、「わかる」ことの難しさを念に置いた上で、「読みやすさ」をどこまで追求するか、ということになる。
これが現時点でのヒラクのスタンスです。「内容」とは別に、「どう伝えるか」に心を砕くことが大事なのです。
だって、デザイナーですから。
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さて、「読みやすい文章とは何か」の話でした。
文部科学省的に言うと、「かんじのすくない、へいいな、ふくざつなろじっくをつかわない、だれにでもわかる」文章ということになります(笑)。が、これは愚の骨頂ですね。
完全に読み手を舐めています。
ついでに言語という文化も舐めています。
漢字やレトリックは、害悪ではなくて道具であり、長い間の歴史が育てた(その文化にとっての)必然性なのです。だから、使う必然性があれば使えばいいと思います。だから、「へいいなぶんしょう」というのは「読みやすい」とはちょっと違うと思う。
では何がポイントなのか。
ヒラクは2つ論点があると思います。
一つは、「自分のことば」で語ることができているかどうか。
これは絶対に100%確信を持って言えます。自分の思っていることを丁寧に咀嚼し(難しい漢字を使ってしまった!)、きちんと文章というカタチに「まとめる」こと。
これができれば、それは「読みやすい」ものになります。
でもここで誤解があって、「考えていることがユニークである」こととは少し違います。ユニークであろうとも、きちんと咀嚼して、筋の通った文章にしなければいけないと思うのです。
具体的に言うと、「ユニークな経営者」の書いた文章はけっこう的外れなことが多くて(笑)、「内容が面白いから、書き方はいいんだ」という、これまた言語というものを甘くみた意識によって、せっかくの個性を「伝える」ことができない。そこでゴーストライターという職業が発生するわけです。
それと、学者や官僚に多い失敗というのもあります。
「自分の考えは高等だから、高等な言葉使いにしないといけないのだ」という先入観です。
この結果、彼らは何をさぼるかというと、「自分は要は何を考えているんだっけ?」という点検作業です。
高等な語彙やレトリックを駆使しているようでいて、単に脳みその迷路の中で迷っている。
こういう例もよく見ます。
常日頃大事にしている言葉に、「考える=100、話す=10、書く=1」というものがあります。
頭のなかでは、100の無数のアイデアやひらめきや妄想が渦巻いていて、そいつを人にそのままぶつけるとアブナい奴だと思われるので、とりあえず10選んで話す。それでもよく考えればグチャグチャなんですが、一応話し相手は「何の話?」と聞き返せるから、なんとか成り立つ。しかし、書くとなると、さあこれが大変。
あとは、みなさん一度は体験したことのある苦しみが待っています。
極端に言えば、「書く=考える」と言っていいと思います。補足すると、「書く=本当に考える」ということです。
さて、では「本当に考える」とは何かと言われると…第二の論点に入って行きます。
誰に伝えようとしているのか明確な像を持つ。
最近ようやくハッキリ意識できるようになりましたが、これすごい大事なんです。考えの論点をフォーカスするためには、「対象」が設定されていないといけないんです。その時に、とらえどころのない自分の意識を客観化してくれる「誰か」を想定する。
そして、文部科学省的な「だれにでもわかる」文章は、平易なだけで全然「刺さらない」んですよ。
「優しいだけで絶対つき合いたくない人」みたいな存在です(笑)
これを避けるためにはどうするか。天才は知りませんが、僕らみたいな凡才はせいぜい2?3人とか、多くて10人?20人の人の顔を思い浮かべながら書く。
その人をハっとさせるように、ニヤッとさせるように、ホロッとさせるように書く。
あいつに次会ったときに「ブログ面白かったよ」と声をかけられたら、「いや、適当に書いてるんだけどさ…」とか言ってしらばっくれる気持ち良さを想定しながら書く(笑)。
想定した顔ぶれに絶対に「刺さる」、そういうものを書いていくと、なぜか「読みやすい」ものになっていきます。
なぜなら、表面的な文章の平易さではなく、生きた言葉、その人らしい言葉、届く言葉の力がそこに生まれでてくるからなのです。
すごく単純な話です。「生きた言葉」は「生きた顔」に届けないと死にます。というか生きもしません。
すべての人に読みやすい言葉なんて存在しません。
すべての人を口説けるラブレターが存在しないように。
最高のラブレターは、「好きなアイツ」を口説けるかどうか。で、それって他の人が読んでもグッときたりするじゃないですか。これって結構真理だと思うんですよねえ…
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そして。ここから話をもう少し掘り下げて行きます。
文部科学省的な「へいいで、むずかしいろじっくをつかわない」文章。これも、なんだかんだ無視できない話だと思うんです。
一応「デザイナーのフリした学者」と名乗っているので、このブログでは割と小難しい話題がたくさん出てきます。でも、認識論や技術の話って、本当は僕たち一人一人の暮しを変えていくためにとっても大事な問題だと思うんです。
今までは、アカデミックな領域が、その普通の僕ら一人一人に大事なはずの話を「高等な文章」という盾をはって、見えなくしてしまっていた。あるいは、「そういう難しいの、オレには関係ないさー」という状態にしてきた。
そこで何が起こっていくか。「社会の階層化」です。カースト制度が生まれていくんです。
大事な話は、「高等なことがわかる、高等なひと」(文部科学省の官僚みたいな)に独り占めされて、わりとどうでもいい話が、「へいいで、だれにでもわかる」文章としてばらまかれて行く。
最近はそれすら無くなって、ひたすら街を埋め尽くす美女とイケメンの芸能人の巨大顔写真に脳みそと感性をジャックされて、「チャン・グンソクかっこいいよね?」といって盛り上がるか、「上司が最悪でさあ?」という話が居酒屋のカウンターで延々とループするという現象が蔓延しているように見えます。
で、そんなこと言っているお姉ちゃんの肩を叩いて、「それはダメだ」と言うつもりはなくて。
何を言いたいかというと、「それを繰り返していると、僕たちはアブナいんだ」ということなんです。
そしてその責任はひとえに、「大事な話を出し惜しみしてる奴」にあるんです。
(この話はまた改めて記事を書きたいと思います)
「誰に伝えるか」という対象の像を明確に持つ、と言いましたが、僕は学問や技術の専門領域で生きているわけでない僕の家族や友達に、大事な話を「必ず伝える」と思ってこのブログを書いています。
だから、「丁寧に考えて書く」、「アツいテンションで書く」、「なるべく平易な言い回しで書く」、全てを大事にしたいなと思っています。
そんなエラそうなこと言って、実際ヒラクの文章は読みやすいのか!?
…答えは皆様一人一人の判断にお任せします。

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