2017年に出版した『発酵文化人類学』の翻訳版や文庫の話が進んでいるのだけど、本が出てから膨大にフィールドワークを重ねたので、アップデートの必要性を感じている。増補改訂とか再校正・校閲とかトピックスが膨大なだけに大変な仕事になりそうなのだが、三年近く経ってみると正直このままじゃマズいという箇所がけっこうある。ということで久々に『発酵文化人類学』を読み返しながら再考すべき部分をピックアップしている。

そして。あわせて今年出た新著『日本発酵紀行』も読み返しているのだけど、こちらは前作とは逆で新版が出ることがあってもなるべく内容を変えないほうが良さそう。

それはなぜかというとだな。同じ発酵をテーマとしていてもこの二冊は論旨がだいぶ違うからなんだね。

考えたことと見聞きしたこと

『発酵文化人類学』で大事なのは「作者の考えたこと」で、発酵と文化人類学を関連させたり、発酵をデザイン的に読み解いていく思考のプロセスにある(と三年経って客観化できるようになった)。だから取り扱っているトピックスや情報の妥当性が大事になる。なので明らかに定説や客観的事実からかけ離れている箇所やもっと妥当な書きかたがあるところはアップデートされるべきだ。

いっぽう『日本発酵紀行』の場合はどうかというとだな。これは僕が「考えたこと」ではなく「見聞きしたこと」が論旨の核になっている。紀行文という体裁なので、各地域での伝聞は文献や他の地域のレシピを見ると異論もあるのだけど、その土地で僕が見聞きしたエピソードをそのまま書くことを重視している。客観的事実というより伝承や体験そのものをアーカイブしたかったんだよね。

例えば。
福島県会津若松の郷土料理、三五八(さごはち)漬けのレシピを紹介する時に、起源に忠実であれば塩3:麹5:米8の分量なのだけど取材した麹屋さんは塩3:米5:麹8だ。昔よりも麹が貴重なものでなくなったからなのだけど、オーソドックスさを取るか現場感を取るかでめちゃ悩んだ。

他にも。宮崎県日南地方の謎の海藻発酵食品『むかでのり』を調べていくと「海でつくった後に山の集落に持っていき、お盆の行事としてご先祖様にお供えする」という話を地元で複数人から聞いて、それをやる理由がわからないし文献もないので本に書くかどうか迷ったんだけど、真偽は脇においてエピソードを掲載した。

『日本発酵紀行』は『発酵文化人類学』の時のように既存の文献や定説で引用/裏付けできないエピソードが山盛りで(もちろん目を通せる資料にはあたっている)、さてどうしたものか?と途方にくれたんだけど、結果として紀行文というプラットフォームによって「僕が当事者として見聞きしたこと」が核になることになった。『むかでのり』をお供えするのが、僕が出会った数人しかいないとしても、とにかく「その数人がいて習慣を継承している」ということを記録に残すことが大事なのだ。

極端な話だが、話を聞いた人が適当なホラを吹いていたとしても「そういうホラを吹く人に僕がこの土地で出会った」ということ自体は事実なので、それを記録しておく(もちろん明らかにアヤしい話は調べ物をしたうえで取捨選択してあるけど)。
『遠野物語』を「河童なんて実在しねーし」とか批判しても意味なくて、遠野の住民たちがかつて河童を信じていたこと、そしてその場を柳田国男が訪ねたということ自体に意味があるわけだ。

本が出た十年後に詳細な調査を行い「実際はやっぱ違いました」となったとしても、この本は出た時代のアーカイブとしてそのままの内容を残すのがいいのではないか。ていうかこの本をきっかけとしてむかでのりやあおちゅうの謎が解き明かされる研究が生まれるといいなと思う(とか言ってあおちゅうは僕自身も関わって絶賛研究中なのだが)。

情報と実感の距離について

二冊目の本はひたすら自分の足で情報化されていないことを探すフィールドワークのアーカイブ。目にしているナマの現実の力が強すぎて、理論を構築している場合じゃない!という感じになるのが正直なところ。

この「体感と情報の距離」は、人類学でよく言われるタイプの違い(キングダムにおける本能型と知略型の違い的な)の話だなと思ったんだよね。

一冊目の『発酵文化人類学』のメインモチーフとなったレヴィ=ストロースやマルセル・モースは、自分の足でフィールドワークをするというより文献をたくさん集めて理論をつくるタイプの人類学者(レヴィ=ストロースに関してはちゃんとフィールドワークしてるぞ!という指摘もありますが)。僕個人としては現場主義よりも書斎で理論構築するタイプの人類学者のほうをリスペクトしている。

というのもだな。
一つ一つの情報を、過度な思い入れをもたずにフラットに並べて組み合わせていく作業が普遍的な理論をつくる時に必要で、その時の材料は自分の身体(実体験)から離れた「純粋な情報」であるほうがいいのでは…と感じたりする。

ツバメコーヒーで店主のタナカくんと対談した時に「現代は直接体験することの当事者性に価値が置かれすぎるきらいがある」という話が出たんだけど、その意味をアプローチが真逆の本を二冊書いた後では切実に感じる。当事者性を押し出すと批判されにくくなるけど、エピソードの面白さに引きずられすてソリッドな考えかたを構築できない問題が起こるリスクもあるよと。

次をつくることで乗り越えるしかない

それまでアニメとか絵本をつくっていたデザイナーが突如、異なる学術的なトピックスをごちゃ混ぜ(”横断”とかカッコいい表現できねえ)にした本を出してけっこうな話題になり、たくさんの人から「なかなか悪くないではないか」という感想をもらったが、もちろん各領域の専門家から(だいたいは思いやりに満ちた感じで)「この箇所については◯◯で…」と指摘をもらい、でたぶん僕の知らないとこで「なんだこのふざけた本(ヤツ)は!」と怒られているだだろう。

正直僕も勢い先行でリリースしてしまい「うわああああやっちまったあああ」と事後に青ざめることもあった。二冊目は紆余曲折あってツッコミ受けにくい本になったが、しかし僕は次作でしょうこりもなくまた「考えかた」系の本を書くつもりだ。系譜というリングに登ってボコボコに殴られにいく。しかし次回はそれなりにこちらのパンチ力も身体のタフさも向上しているはず。

全てにおいて完璧なものを目指すといつまで経っても何も動けない。現時点での未熟さや批判は未来に前進するための燃料なのだ。僕は懲りずに謎なものをつくる。そしてリリースしたあとにまた「やっちまったあああ」と青ざめるのであろうよ。

【追記】ちなみに次作のリリースは最速で二年後くらい。わりと壮大なテーマなので調査と準備が膨大にいる…(冷汗)

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