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深夜にふと考える。

ヒラクです。
もうすぐ桜が咲く季節だというのに、底冷えのひどい工作室で考え事をしています。

前回のブログで書いたように、インフラの混乱や原発事故の影響下にある東京で「普通にやっている」わけですが、自分のなかでその位置づけをもう少し深く考えてみようと思いました。

地震が起きた最初の週末、「計画停電が来る」という話がチラホラ噂されはじめた時期に、僕は関西での用事があって東京を離れました。大阪や京都の街は(その時点では)のんびりとしていました。

それでも、お世話になっていた音楽家の友人宅では、UstreamでのNHK放送が常時流れ、表面下でセンサーの鋭いその子は、「一つの、絶対に消える事がない、巨大なくさびが打ち込まれた」というきざしを感知しているように見えました。

三月に雪が舞う京都の裏道を歩いている時ふと、奇妙な非日常感に教われました。

僕の住む街では、電気が消え、ガソリンが消え、食べ物や水が消え、その北では、家が消え、街が消え、命が消えているー『らしい』。

やらなければいけない仕事には、正直ほとんど集中できませんでした。絵を描くことも、文章を書くことも、何かを集中して考えることもできなかったのです。

恐らくたくさんの人がー絵を描いたり、演じたり、ものを書く人たちがそんな状況になっていたでしょう。それは今思い起こせばどうだったのか、恐らく、表現が意味を持つために必要な「床」が抜けてしまった、ということなのだと思うのです。

「意味」は、それを保証される地盤が必要です。それは、抽象的にいえば時代のパラダイムで、具体的にいうと、「色々あるとは思うけど、とりあえずそれを前提としよう」というコンセンサスです。数学でいうと、「1足す1は2」みたいな基準軸です。

その基準軸があるから、そいつを必要悪として批評やカウンター表現ができたり、茶化したり崇めたりできるのです。でも、そいつが「壊れた」という信号を受け取った瞬間、自分の言葉の、表現の向けどころが全くわからなくなってしまったのです。

愛読している松岡正剛さんの「千夜千冊」の更新記事を見て、そんな事を考えました(それほど単純なことではないのでしょうが。)そして、確実な情報を知っている専門家の言葉が大きな価値を持ちました。

頭の良い人たちは、付け焼き刃の知識でも何事かを語れるはずでした。それでも、それができなかった。その空虚さに、「自分なら何か気の利いたことを言える」という自負の虚ろさが露呈してしまいました。

twitterなどでも、「感傷的な詩はいらない」、「確実な情報が必要だ」という意見が説得力を持ちました。それは「言論統制だ」、「自主規制」だという考え方もできます、しかし、ものを書く人、表現をする人、意見を述べる人達の多くが、自分の言葉に空虚感を感じていたはずです。

きっと、全ての「メタファー」が通用しなくなったのです。

なぜなら、喩える対象のものが壊れてしまったからです。政治を、原発を、メディアを批判してみようとしても、それは空虚でした。すでに粉々になりかかっているものに噛み付くことの無意味さの前に、何もことばが出なくなってしまったのです。

その後に残ったのは、行動だけでした。行動に乗っかる言葉だけが、かろうじて意味を持ちました。

 

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ここから先は、本当に僕の個人的な意見を書きます。なぜそれを最初に言うかというと、僕がずっと考えることから逃げ続けてきた事だからです。

地震が起きる前から、既に、政治もメディアも、経済の仕組みも、組織のありかたも、「日本人」だとかいう国民性も、大きなものは既に壊れていました。ゾンビにカンフルを打って無理矢理動かしていただけでした。

どうにもならない事実が、そもそもあったのです。でもなぜかその事実に、動かしがたい事実に僕は目をつむっていたのです。

地震が無くたって、このままだと僕の世代の大半は将来のことなんか考えて生きることはできず、子供をつくることなんてできないような状態でした。環境問題のことだって、明日石油はおしまいです、と言われるまで馬鹿騒ぎを続けていたでしょう。鬱病になる一歩手前で踏みとどまりながら、「ハンコだらけの決済の仕組みはどうしようもない」とあきらめて働いていたのです。「僕らが40代になるころには、二人で一人の高齢者を支えなければいけないらしい」という話は遠い国のおとぎ話だと思ったまま年を重ねるだけでした。

仕事がなくて、お金がなくて、病気になったり、学歴がなかったり、少し怠けたり、妊娠したり、英語が母国語じゃない国にしばらく住んだりでもすれば「社会のレール」という異常に細いレールから脱線してしまって、ほとんど保障も受けられない現状、疲れきってもう自分の街の外の世界のことなんて想像力も1ミリも働かない現状。オトナたちは「政治が悪いんだ。政治を変えなければ」と念仏にように唱えるくせに一向にそれを信じている様子はなく、それに幻滅した若者たちは「政治…」と口にすることさえ無くなっていました。

「政治家たち」は、エリートのはずなのに、大きなものを動かして、お金もたくさん持っているはずなのに、誰一人幸せそうには見えませんでした。あの肝臓を壊したような顔色の人たちが、自分たちの生活を決定づけているとは、どうしても思えませんでした。

与党だとか野党だとか、何が違うのかサッパリ見分けがつきませんでいた。自民だとか民主だとか、そもそも出元がみんな同じものを違うように見せる意味すらわからなかったのです。

そうやって思考を放棄していった結果、「声が大きいのはいいことだ」、「毅然としていることはいいことだ」と思うようになりました。毅然としている人達は、自分たちを救ってくれる、そんな風に感じられたのです。政治の言葉はもはや外国語になっていたから、わかるものは声の大きさと面構えしかなかったのです。

「大企業」は、人を幸せにする商品を作りたい、といって、何百人、何千人の人たちががむしゃらに人を幸せにするために働いているはずだったのですが、それも何だか信じられなくなっていきました。テレビのCMで青空や、子供の微笑みや、幸せな夫婦の姿を見ても、それはその会社と関係ないじゃないか、と思うようになっていました。会社に入る人は、それでも必死に人を幸せにするんだ、と言い聞かせて入社しました。

大半は何年かしたら、その部署の利益や自分の年収の計算だけで頭がパンクしそうになりました。少なくない人が、せっかく大学の後半を費やして入ったあこがれの会社だとしても、心が壊れたり、からだが壊れたりして働くことができなくなりました。そんなひどい状況でも「これはちょっと休憩だから」と言って、事実から目をつむってしまったのです。

「地域」は、気付けばどこへ行っても同じスーパーとデパートと服屋さんとコンビニとレストランと喫茶店が国道ぞいに並んでいて、どこがどこだかわからなくなっていました。それじゃいけないと言って、若者が「町起こしをしよう!」と声をあげて、大人たちや自治体に声をかけましたが、彼らは「若者がんばれ、応援するぞ」と言ったわりには、お金もチャンスも与えませんでした。

自治体や大人たちが声をあげることもありましたが、声をあげるだけでアイデアが何もなく、アイデアを持っている若者たちとコミュニケーションを取る方法もありませんでした。

例え話がすすんだとしても、「さて。じゃあこの町ってそもそも何だったっけ?」と、大半の「ふつう」の町は記憶喪失になっていました。そうこうしているうちに、ますます同じスーパーとデパートと…が増えて行きました。もうそれは誰も望んでいなかったはずだったのに、まるで繁殖する生き物のように日本のそこここを覆っていました。

ヨーロッパの観光地から帰ってきた人は口々に「日本の街並みは、どうしてこんなに味気ないんだろう」と文句をいいたくなりました。農業も、漁業も、観光業も、組合のおかげで何も考えずにすんでいましたが、真綿で首をしめるようにじわじわと組合が衰退していきました。

「このままじゃいけない」、「何かを変えなければいけない」、そう感じ始めた人々が口にしだしたのは、「応援したい」でした。誰か、アイデアを持っている人、声のよく通る人、毅然とした人に託したいとおもったのです。けれども、応援されたい人が、お金や権利をお願いすると、応援したい人は愛想笑いをしながら差し出した手をひっこめました。やがて、みんながみんなを「応援したいね」と微笑みながらうなずきあうようになりました。

事態は、いっこうに変わりませんでした。

むしろ、年がたつにつれ、ひどくなっていきました。それに比例して、人々は微笑むようになっていきました。微笑まない人も、いました。

仕事や、人間関係や、将来に絶望して微笑み続けられなくなった人は、病院や自室や路上の片隅に隠されて、見えなくなりました。

事態を見かねて、怒りの表情を浮かべた人は、「あの人は調和を崩そうとしている」といって、居ないことにされました。

一人では変えることができないと思って、たくさん集まって声をあげる人達もいました。

路上や、公共の場所で、これはおかしい、これを変えてほしい、と叫びました。

けれども、その顔は微笑んでいなかったから、警察に鎮圧されました。

僕の知っている何人かは、刑務所に連れていかれました。「あの人は調和を崩そうとしている」といって。

調和なんて、そもそも嘘っぱちだったのです。そんなもの、幻想だったのです。

その事実は、わかっていたはずです。

なのに、「嘘っぱちだよね」という言葉を念仏のように唱えて、なぜかその事実を無かったことにしてしまったのです。大人たちが、「政治は変わらなければ」「若者たちを応援したい」と繰り返す、ゾンビの思考回路に、僕もはまっていたのです。

路上で叫んでみても、地域で頑張っている人たちと仕事をしていても、心の底のほうでは、「嘘っぱちだよね」の、空虚な気持ちがどうしても拭えなかったのです。

このリアリティは、嘘っぱちだ、そして、それを口にする僕の言葉も、嘘っぱちだ。

その事実を、この2週間でまざまざと突きつけられたのです、確信しています、それは僕だけでなくて、「この世界は嘘っぱちだ」と言葉や絵や音楽や演劇や…で表現してきた人達の多くが、この事実と向き合わざるをえなくなったのです。そうやって、言葉がだんだんと消えていきました。

残ったのは、現実の、生きるための行為だけだったのです。

 

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京都の友人宅で考えました。「このまましばらく旅をしようかな」と。バッグには、念のため持ってきたパスポートもありました。でも、雪の京都の裏町を散歩してもまったく「入って」きませんでした。

おそらくこのままハノイに行っても、パリに行っても「入って」こないような気がしたのです。

東京で仕事を一緒にしている人に、打ち合わせの延期の電話をしましたが、その人の「いつも通り」の声を聞いて、やっぱり東京に戻ろうかな、と思いました。「オレは逃げない」みたいな大義名分はありませんでした。その人に会うことになってたんだから、その人に会おうかな、と思っただけでした。

そして、前回のようなブログを書いたのです。

本当に、何一つカッコいいことがなかったのです。東京に戻ったのは、今までの「なんとなく、決断を流してしまう」という習慣でした。パニックにならないようには、「いつもどおり」をやるしかない、とそう思ったのです。

急性の言語喪失は、ちょっとづつ治ってきています。そしてその後には「復旧ではダメだ、新しい社会をつくるんだ」という意志が生まれてきています。

それはつまり、「嘘っぱちは、嘘っぱちだ」と心の底から言い切る勇気を持とう、ということだと僕は思っています。

政治も経済も地域も壊れたんだから、批判じゃなくて提案をしよう、という決断が生まれるはずです。

そしてその時に大事にされるのは、行動に含まれた言葉になるのでしょう。具体的で、裏付けのある行動にともなった言葉です。

その中で、きっと僕の生業の「表現」というものの形も変わっていくのだと思います。

「表現のための表現」みたいな考え方は意味を失い、世界の「底」の再建に、どんな立場であれー関わること以外のものをやることには空虚感が付きまとってくるはずです。

さて、その中で自分は何をやるのか?

答えは、決まってます。「いつもどおり」です。

ただし、一つだけ変わることがあります。それは、事実から目をそらさないこと。

「嘘っぱちは、嘘っぱちさ」と言い切ること。

長い長い文を読んでくれて、どうもありがとう。いつもどおりにやる人、大きく変わろうとする人、どっちか選べない人、全ての姿勢に何らかの意味があると、ヒラクは思っています。それでは良い休日を。

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