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文化資本について。

おはようございます。ヒラクです。

最近、寝起きがすごいことになってまして。眠りがものすごーく深くて、毎朝、「3年ぶりに地獄巡りから帰還した」みたいな体で目を覚ますんですよ。夢は全く見ないか、とんでもなくシュールなものを見るかどちらか(いったいヒラクの脳のなかで何が起こっているのだろうか)。

さて、今日は「文化資本」について。

パートナーである民ちゃんのご両親は大変に美術や文学に精通していて、民ちゃんと話していると、そのことが明らかになるタイミングが多々ある。

それは、民ちゃんもまた美術や文学に大変精通しているということではなくて(ワタシ、本あんまり読まないし!by民)、精通していないからこそポロッと出る育ちの良さというのがあるのですね。

例えば。

民ちゃんのお母さんは、丸谷才一さんの本を読んで結婚式のスピーチに臨んだそうですが、娘は丸谷才一さんの本は読んでいない。読んでいないけれど、お母さんを通してその存在がインプットされているので、恐らく友達の結婚式でスピーチを頼まれたら本屋さんに「挨拶はたいへんだ」を買いに走るに違いないのです。

世の中には、膨大な量の情報があるわけで、「読む・触れる」ということの前に実は、「何が有益な情報かを前もって知る」という前提条件が大事です。じゃ、どうやって「前もって知る」かというと、それはお家柄によってである。と言ったのがフランスの社会学者のピエール・ブルデュー(←いかにもフランス的スノッブだな)。

教養ある家庭に育ったキッズたちは、この「事前に知っている情報」がクラシックであり、よく吟味されている(親によって)。だから、例え自分が実際に「読む・触れる」段階まで行っていなくても、何かの話題に出たり、必要性を感じたら速攻でアクセスできるのです。
お家柄が良くない子たちはどうするかというと、小さい頃から手当たり次第に「読む・触れる」の量を増やすしかない。そうすると、情報自体はたまっていくけどあんまし品性はない。

ブルデューの「文化資本」の隠れた要諦は、「一見無知に見える状態で発動するお家柄が最強」ということであり、知っている事ではなくて、「知に対する態度(なんか、育ち良いよね)」で「ブルジョワ秘密倶楽部」のドアが開くか否かが決まるということなんですけど(←これはヨーロッパ一部地域の話ね)。

だって。日本にもう華族文化なんてないし。小津の映画に出てくるようなブルーカラーとホワイトカラーの明らかな違いもないし。なもんで、文化資本というのはもはや社会的成功のベースではなく、個人の「なんか育ちよくて感じ良いよね」的ないちプロパティになったんだと思う。
話は変わって。
僕のお家柄は残念ながらあんまり良くないんですけど、文化資本に貢献した点が一つあった。それは東京で育ったこと。
中学生くらいまではそれでも多摩の田舎だったから関係なかったけど、高校の近くには美術の予備校があって、予備校の近くには吉祥寺があって、クラシック映画をまとめて見れる映画館があって、吉祥寺から20分くらいで渋谷に行って音楽聴きに行ったりギャラリーに行くことができた。

今思えば、これやっぱり大きかった。

地域が子供を育てる「第二の家」だとしたら、東京で遊ぶというのはメリットが大きい(デメリットもあるけど)。なんとなく街を歩いていると、情報がたくさんインプットできたから、そこから良いものを選ぶアンテナが育っていったような気がするぜ(僕が18くらいの頃に渋谷は、パルコ文化や「渋谷系カルチャー」が滅亡する前の最後の輝きを放っていた頃だったな)。

しかし!この「地の利」みたいなヤツも、今や昔ほどのメリットは無いだろうな。

もう東京の都心に集まる情報に「キッズでもワクワクできる求心力」は薄れてきているし、そういうのはむしろ地方で生まれてきている。そして情報インプットの主戦場はネットになってきて、タワレコ行くよりiTunesをザッピングしていたほうが情報量自体は多い。
もはや「文化資本」なんてのはそこらへんのワンちゃんたちに食べられてしまったということなのですよ。教養もサブカルも無効化し、そのうち僕たちは「何かを知る」ことに対して「もうお腹いっぱいだブー」となって、ひたすら価格.comで欲しいものの値段を比較し続ける日々を送るのかもしれないよ。ワンワン。

【追記】ちなみに民ちゃんの名誉のために付け加えておくと、彼女は「食と地域農業」についてだいぶ精通しておられるので、そういう意味ではまた違う「文化資本」を身につけた模様。

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