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思想と表現のねじれ〜『國民の創生』を見て思うこと。

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大学に入って最初の二年間、僕の専攻は「映画批評」でした。
早稲田大学文学部の「演劇映像専修」というアングラ臭プンプンなところで、やたらめったら映画を見まくっていました。

そんでね。
当時のシネフィル(映画マニア)予備軍が必ず通らなければいけない作品が2つありました。一つはロシアのエイゼンシュタインによる『戦艦ポチョムキン』。もう一つはアメリカのグリフィスによる『國民の創生』です。

グリフィスの確立した、映画の基本ルール

昨夜、10年ぶりに『國民の創生』を見返したんですよね。
見返してみて思ったんだけどやっぱりこの映画、スゴい。何がスゴいかというと、「いま僕たちが『映画っぽい』と思うテクニックをだいたい開発している」ことなんだね。

『國民の創生』は、一言でいうと「超俗っぽいプロパガンダ映画」です。
南北戦争以後、アメリカという国家が統一されていく過程を描いた「スペクタクル伝記映画」なわけですが。

えーと、exシネフィルのヒラクから見ると、この映画がスゴいのは以下の通り。

・1915年という「映画の黎明期」で、ロケで大量のエキストラを使ったこと
・政治・歴史的なテーマとエンターテイメントを合体させたこと
・演劇的な演出ではなく、「映画的な演出」の基本要素を提案したこと

この3点から「いま僕たちが映画だと思う要素」を、100年前に一式揃えてきたことをもって、グリフィスは「映画界のゴッドファーザー」と言い切ってもOKだとヒラクは思います。

ゴッドファーザーは「映画的な時間」を創生した。

「ヒラク君がそう言うんだったらワタシもさっそく見てみよう!」
と思ったそこのアナタ! 見なくてもいいよ、この映画。たぶん退屈だと思うから。

SFXもないし、緻密な心理描写もないし、セリフもないし(100年前だからね)。今の「エンタメ要素たっぷり」の映画を見慣れていると、この映画はほんとにつまんない(僕も早送りで見た)。

だけれども。実はこの『國民の創生』、アメリカの歴史に詳しくないアナタでも「セリフがないのにストーリーがわかる」という点が重要。

具体的にいえば、「時間軸に沿って物語が進行している」とか、「複数の登場人物から見た視点でカメラが切り替わる」とか、「一つのシーンで、遠くからと近くからの複数のカメラのショットが並行している」とか、いま僕たちが当たり前だと思っている映画的なストーリーテリングの原型が、この作品でほぼ完成していることがスゴいんだ。

時は1915年。この時代の映画は、正直「見世物小屋のコンテンツ」だった。それはつまり「芝居の延長線上」にあるものだった。
だから、人物描写は「体全体が入る引きのショット」か、「顔の表情がハッキリわかる寄りのショット」のどちらしかなかった。しかし!グリフィスは引きのショットと寄りのショットの両方を「一つのシーン」に突っ込んだ。

この瞬間に、「映画でしか扱えない時間軸」というのが誕生したんだね。

えーと。つまり「ワタシのこと好き?」と詰め寄る女優のアップの直後に、崖っぷちに詰め寄られる男優の引きのショットが続き、さらにそれを見ている市原悦子的な第三者の顔のアップに映る……なんだけど時間軸としては並列である、という時間軸のことだね。これは、演劇とか小説では成立しない。

『國民の創生』をもって、映画は見世物小屋のビザールコンテンツから「独立した芸術表現」となった。
だから、100年経った今でも、僕たちはこれを僕たちが思っている「映画」として鑑賞することができる(ぶっちゃけつまんないけどね)。

映画監督としての天才。思想家としての愚才。

てなわけで。『國民の創生』は映画史に残るマスターピースなわけです。
なんだけどね。この映画、超絶大ヒットしたにも関わらず、「アメリカ映画史上最大の汚点」と評価されていたりもする。理由は、「人種差別が甚だしすぎる」なんですよ。素人がこの映画を見たとしら、脳裏に焼きつくのは後半戦に登場する『KKK(アメリカ合衆国の秩序のために黒人を排除する秘密結社)』のトラウマ級の立ち振る舞いに尽きる。

グリフィスにとって、黒人は「アメリカの秩序を乱すもの」でしかなく、プロレスの悪役マスクみたいなKKKは「アメリカの秩序を正すもの」。なので、現代に生きる僕たちにとって、超絶カルト集団にみえるKKKが「正義」として描かれる。ここにすごく違和感を感じてしまうんだな「これは人種差別映画である!」とね。

the-birth-of-a-nation不気味な白装束のKKK。子どもの時に見たらトラウマ級。

なんだけどさ。
思うに、もしこの人種差別主義者のグリフィスがいなければ、ロシアアヴァンギャルドのエイゼンシュタインも出てこなかったし、溝口健二や黒澤も出てこなかった(←だって、映画の基本的なパラダイムが作られなかったんだもの)。従って、ヒッチコックもキューブリックもトリュフォーもフェリーニも存在しなかったかもしれない。

ここに表現の難しさがある。思想の健全さと表現の卓越性が一致しないことがままあるという。

100年が経って、グリフィスの『國民の創生』は人種差別映画として『タブー』になった。なんだけど同時に、ダヴィンチの『モナリザ』のように、これ以降の映画にとって基本的な「テンプレート技術」が揃ったスタンダードにもなっている。

クラシックな名作を見るうえで、鑑賞する側の僕らには常に「テクニック」と「思想」を分別して考えることが求められるんだな。

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