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合理性と効率を取り違えてはいけない。


こんばんは。ヒラクです。
2、3日前にふと気付いた事があります。
それは、合理性=効率という無意識の方程式が実は間違いなのではないか、ということ。
この仕事をつくづくしていて思うのは、現代はとにかくものすごい情報があるという事実。
朝の新宿駅を人ごみをかき分けながら歩いて行くような大変な思いをしながら、必要な情報やモノを編んでいく中で、ふと「どうしてこんなことになっちゃったんだろう?」と思ったわけです。
モノも、情報も、イベントも、出会いも、ありすぎるぐらいある。
人生の選択肢も、実行できるかどうか別として、選びきれないぐらい、ある。
ところが、この状態が幸せかというと、どうも幸せじゃないような気がしてならない。
僕たちの世代は特に、こんな風に思っているんですね。
で、じゃあ僕の親以上の世代はどうだったかというと、どうやら「たくさんあれば幸せなんだ」という方向にひたすら動いてきたみたいなんです。
戦後、モノも情報も全然ない社会のなかで、飢えを満たすために、たくさんのものを作って、たくさんの選択肢を用意した。「未来の子供たちが、豊かな人生を送れるように」と思ったんでしょうね。
当時、きっとこんな方程式が信じられていたはずなんです。
生きること=たくさんあること
合理性という言葉において、その「合理とは何か」を問うた時に、辿り着くのはやっぱり「生きる」ことだと思うんですよね。生きるための「ことわり」です。
生きていくためには、モノも情報も豊かにしなければいけなかった。そして、たくさんつくるための方法=「効率化」という考えが生まれたのでしょう。
そして、モノがたくさん作られて、それと共に情報もたくさん流れて、それが極限に達した時に、もはや相当の訓練を積まない限り、自分が何をしているのかがわからなくなってしまった。
色んな人と話をしていて感じるのです。
「自分が何を求めているのかわからない」、「何かを選ぶことに苦痛を感じる」と。
マーケティングや、市場調査が効かなくなってきたのはこれのせいです。
いくら聞いても、聞かれた当人がわかってないんだから、意味がない。
…さてじゃあどうしよう?という話はマーケティング畑の人に任せておくとして、ヒラクが考えるのはそもそも「生きるための生産=効率化」だったはずなのに、それが人の生存を脅かしているこの状況は本末転倒なのではないか?ということです。つまり、「合理性」の定義が間違っていたのでは?ということなんですね。
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マダガスカルの村に、こんな面白い話があるそうです。
AとBの村のあいだに、何にも使われていない漠然とした丘がある。ある外国人が「どうしてあの丘で食べ物を育てないんだ?」と聞いたら、村の人はこう答えたそうです。
「どんなことをしたら、食べ物をめぐって争いが始まる」と。
もしかしたら、これも「合理性」なのかもしれない、と思うんです。
ことわりは、生きることなのですから。争いが起こって死んでしまったら、ことわりは無くなってしまいます。
知恵には色んな種類があります。
戦争を挟んで、僕たちはこんな類の知恵を失ってしまったのかもしれません。
ラインを組んで、一極集中して、たくさん作って、たくさん欲望をあおって、たくさん浪費して、いのちが息切れしてしまってはじめて、今まで一生懸命培ってきた知恵が、そんなに万能でないことを知ったのでしょうか。
このブログを読んでくれている人ならすぐわかるでしょうが、僕はモノを持つ事が好きじゃありません。
情報をただ集めることにも、あまり興味はないのです。何かが増えていことに対して、無条件に「良い」とは言えない―こんな感じは、何も僕だけではなくて、今の時代を生きている多くの人が感じていることだと思います。
それは、無意識に「合理性=効率」というものに疑問を持っているからなのです。
じゃあ、次世代の「合理性」とは何か、それを一緒に考えてみましょう。
…朝が来たので次回に続く!!

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