▶旅した&考えた

中世の旅芸人に見る、脱テンプレ思考。

こんにちは、ヒラクです。
こないだの大津でのイベント以来、アサダくんと僕のほうで微妙に「関心のシンクロ」が起こりはじめているので、「またかよ」と思われるけれど、また「メタ視点」なお話を一席。
ブログの記事や何かの原稿なんかを書くときに、無意識に避けているものがあります。
それは、「テンプレ感」。別に間違っちゃあいないけど、僕が言わなくてもいいよね、みたいな表現です。フランス語でいうとこの、Cliche(クリシェ)ってやつね。ちゃんと思考を働かせなくてもこいつを持ってくると、「なんかそれっぽくなる」みたいな便利ツールなので、気を抜くとつい使ってしまう(味の素とか、だしの素みたいですね)。で、「それっぽいもの」を出すと、本人は満足だけど、他の人は「せっかく外でご飯食べるのに、味の素かよ」と思っちゃうわけです。「テンプレ感」を感じると、好奇心のセンサーが動かなくなる。
それに、そもそも自分がいままさに書いているものを同時並行的に読んでいる「もう一人の僕」がつまんなくなってくるんですよね。だから、いつしか「テンプレ感」をなるべく避けるようになった。
…とマクラを述べた後で、本題です。
最近、中沢新一さんの「悪党的思考」を読みまして、この本がまさに「大津のイベント以降考えていたこと」にピタリとはまったんです(というか、その本の内容が僕にそう錯覚させたのかも)。これは、網野喜彦さんが紐解いた14世紀の「異形の王権」、後醍醐天皇とその周りをとりまいた「悪党たち」のもたらした破壊的な力を、中沢新一さんがさらに文化人類学・神話学的に読み込むという手の込んだ本(さらにその背景には、師である山口昌男さんの「トリックスター理論」もある)。
要は、鎌倉幕府のもたらした「安定的な官僚制度」を、後醍醐天皇一派がいかに「アナーキーなクリエイティビビティ」で破壊し、さらにその「アナーキーさ」故に自滅し、その後皮肉なことに、「原・資本経済」という現代的「安定的な官僚制度」のきっかけを作ってしまった…という理論を述べています(うーん、ややこしい)。
ここには色んな解釈が存在しますが、とりあえず今回の切り口としては、「社会の安定性を、奔放で流動的な力(ピュシス)が破壊し、中世のパラダイムを近世に移行させた」ということでいきましょう。
で、そのアクティビティの中心を果たしたのが、まさに「流浪の芸人たち」であったということで、話を進めます。
僕はかねてより、「阿弥衆」とか「同朋衆」と呼ばれる「ノマドな職能集団」に興味を持っていた。
それは、世阿弥に代表される芸能者だけじゃなくて、鍛治や木地師、海洋民族、山伏、さらには死体処理や屠殺に関わる一族なんかの、けっこう幅広い職能をカバーしている。要は既得権益を確保している「貴族」と「武家」、そしてその既得権を保証している「農奴(ちょっと表現がえぐいけど、ご了承を)」を除いた、いわゆる「非・常民」と呼ばれる「インビジブル」な人達です。
網野喜彦さんや赤松啓介さんが詳細にウォッチした結果、どうやらこの人達は「日常の世界では得ることのできない、何か非常にエッセンシャルなものを、かなりアヴァンギャルドなやり方で取り出す方法を開発」していることを突き止めた。例えば僕の関わっている製材業は、木地師的な要素を沢山持っていて、「樹木」という、人知のおよばない長いスパンの歴史を内蔵しているマッシヴな物体を解体し、「木材」という僕たちの把握できるものにダウンサイジングする特殊な職能を司っている。それは、鍛冶師も同じだし(ほら、もののけ姫にも出てくるじゃん)、海洋民族は、「海上に道を見る」という不思議な力を持っている(僕のおじいちゃんと一緒に漁にいったときに、その能力にビックリした覚えがあります)。
農民たちが自然(つまり植物や家畜)を育み、収穫する。そしてそれを官僚たちが管理する。これが社会のベースになっているのですが、この「インビジブルな人々」を、通常では到達できない自然の奥深くから、何かを「引き出してくる」という職能を担う。それは「同じ場所」で「育てる」という安定的な時間軸ではなくて、「即興的」であり「空間的」な、「その時、その瞬間」の勝負になってくる。
で、話はいっとう最初に戻ります。
アサダくんと僕はいまこの「インビジブル」な技術に深くシンパシーを感じているわけなのですね。「即興的」であるということは、常に「型を破り続ける」ことを意味します。つまり、「脱テンプレ」することによって、「その時、その瞬間」にしかあらわれないものを掴もうとする。
直感なのですが(「なのですが」と譲歩してますが、だいたい直感は正しい)、おそらく中世の転換期のように、いまこの「脱テンプレ」的なパフォーマンスが激しくこの国のあちこちで必要とされていると思うのです。
旅芸人たちが開発した様々な技術や視点が、行く土地土地で営まれている文化やコミュニケーションをちょっとづつ「ずらしていく」。もっと言えば「再編集」していく。そうやって「硬直化した制度」がじわじわと解体されていく。そんな感じの作用が、かつての歴史のなかで何度も何度も繰り返されたはずです。だから、たぶんまた繰り返す。それも近いうちに。
…これぐらいで筆を置くと、地域づくりのコンサルの人達が「そうだ!これから若いイノベーティブな力が必要なのだ!」と納得する感じの「テンプレ的」な落としどころになるのですが(意地悪な言い方でごめんね)、さらに話は込み入っていきます。
中沢新一さんの「悪党的思考」でもう1つ大事なポイントがあります。それは「アンビヴァレント」な感覚です。それはつまり、「欲しいけど、いらない」とか、「見たいけど、見たくない」みたいな「両義的」な概念です。
「インビジブル」な人達は、中世?近世の社会のなかで正に「アンビヴァレント」な存在でした。つまり、「リスペクトすると同時に距離をとる」みたいな感じです。「あいつは『違うひと』だから」といって、歓迎したり追い出したりする。だから、「旅芸人」になる。「脱テンプレ思考」は、面白いのと同時に「不穏」でもある。
「テンプレ的」ことばでコミュニケーションが成り立つというのは、裏を返せば「安定的な社会制度が機能している」ということです。基本的の同じ世界観とか常識を共有しているから、お互いに交換するシグナルは「おい、元気か?オレは元気だ」で基本OKなはずです。ファミレスでだべっている10代の会話を社会全体に拡張した感じで、そこには「このシグナルを伝えないと、いきなり銃で撃たれる」とか「牢屋に連行される」みたいな危機はなくて、「オレとお前はいまこの場で存在を確認しているよ」ということだけで共同体が維持されます。
政治の話をするのだったら大手のテレビ局や新聞で見聞きした選択肢のなかから自分のフィットしたものを選んで、それをコピペする(マスメディアの存在意義は、テンプレを大量かつ安定的に提供することです)。
それを良いとか悪いとか言うまえに、「なぜそうなったか」というと、「それで大筋OKだったから」です。
それでみんな長生きしたし、おいしいご飯食べたし、同じ職場で勤め上げて、マイホーム買って子孫繁栄だったからです。それでOKなら、そうじゃないものはいらない。それが道理だと思います。
しかしですよ。今みなさん、僕が↑で言ったこと、どう思います?「前はそうだったけど、今は違うかも」そんな風に思いません?僕自身の実感でいえば、今まで担保されていた「安定した構造」はもうwindows vistaの上で動いているIE6みたいな「使えない感じ」がしませんか(その環境でこのブログ見ている人、すいません。たぶん画面のレイアウトが崩れています)。
だとすると、「脱テンプレ」の方法論が必要な時期がきている。だから、アサダくんみたいな「旅芸人」が生まれてくる。そしてそういう存在はどういう風に社会にコミットしていくか。
ここから本当の試練が始まると僕は予想します。移行期の壁が立ちはだかってくるのです。ある共同体、とりわけ行政機関とか組合とかが「何か、状況を活性化するようなものが欲しい」と旅芸人を呼ぶんだけど、その恐るべきアナーキーなアイデアを聞いた瞬間「なるほど、やはりアーティストの考えることは違いますなあ。でも、ウチではちょっとそれはね…」という「アンヴィバレント状態」で状況がロックされます。
これは僕も少なからず直面してきた状況で、最近ようやく説明できるようになってきました。それは、そのアイデアがしばしば「決裁権を持っている依頼者の現在の社会的ポスト」を解体する可能性が高いからなのです。双方悪気はない。ないんだけど、考えてみればここに奇妙な「ねじれの構造」がある。「この苦境を打開するには、決済権を持つ者が退場するか権利委譲することが必要になる」ということがしばしばプロジェクトの途中で「暴露」されてしまうことがある。これは苦しい。
他人事で考えると100%同意なんだけど、自分事で考えるとそれは呑めない。そんな事態が起こりえる。それは、「未来を決めるべき人が、旧来の仕組みによってその位置を担保されている」という移行期のアンバランスさが引き起こす。だからその顛末としては「そのアイデアを換骨奪胎して、芸人を追い出す」ことになります。当初のアイデアを水で薄めて味の素を足したみたいな企画となって、今イチ効果がでない。でも、効果が出ないことが実はその決済者の狙いでもある。自分の位置を担保したままで「いやあ、新しいことに挑戦してみたんだけどね…次、頑張りましょう!」とエクスキューズできる(このブログ、行政の人やまちづくりに関わる人もたくさん読んでると思うんだけど、ごめんね、意地悪な言い方して。本当はそうじゃない人もいっぱいいること、知ってるんだよとエクスキュ?ズ)。
てなわけで、やはり歴史は繰り返す。旅芸人は共同体から強く望まれるけど、その共同体の一員となることはできない。だって「不穏」なんだもん。これがアサダくんの言う「コミュニティ・ディアスポラ」状態です。
僕はこの法則は原則変える事はできないと思う。だから、問題は「どうポジティブな落としどころをつけるか」という微妙な塩梅の勝負です。
旅芸人としては、「決済者のボキャブラリーをハッキングするスキル」が求められる。そして、決済者は「旅芸人の思考方法をスキャニングする戦略性」を求められます。
お互いの特質をわかったうえで、ストラテジックに「取り入り、突き放される」ことをゲームのように展開する。そういう生態系におけるリアリズム全開な共同関係を設計していくことが必要なんでしょうね。
そんで、最後にもう一回話を最初に戻しましょう。
僕が最近やりたいと思っているのは「脱テンプレ」した後の「新しい文法」の発見かな、と思っています。
それは恐らく、僕と僕の親たちの時間軸からは出てこない、もう少しプリミティブなところまで戻って獲得できる視点なような気がしているのです。それはつまり、「敗戦→占領→高度経済成長→バブル崩壊」みたいな政治ー経済的な歴史ではなくて、より無意識的な領域に眠っている「みんな思っているんだけど、長い間抑圧されすぎて無いことにしている」ものを取り出すこと。とりあえずその起点として、「旅芸人の脱テンプレ思考」を置いてみたいんですね。
ん?、自分で読み返してみても今日のブログや長くてややこしいな。最後までたどり着いたそこのあなた、どうもありがとう。

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