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タクシーに乗って考えたこと。日本の社会の変質について

こんにちは、ヒラクです。
無事「こうじのうた」のリリースが終わり、ようやく菌界から人間界に戻ってくることができました。週明けから平常運転で頑張るぜー。

さて。
金曜日の夜、神楽坂でのイベント(←すごーく面白かったのでまた改めてレビューします)の帰りにタクシーに乗ったときのこと。

大した距離の道のりでもなかったのに、行き先を告げたら運転手さんが大パニック。
「どどど、どうしたらいいですかね?」と思考停止したまま路地を迷走、「とりあえずいったん止まってカーナビに住所を入れて下さい」とお願いしなければいけない始末。
まああんまり愉快な体験ではなかったわけです。

考えてみれば、昔はカーナビなんてなかったけど、タクシーに乗ればしっかり目的地に着けた。技術の問題ではなくて、つまり「運転手の経験値」が相対的に低下しているのだろう(←データの裏付けないから断言できないけど、少なくとも向上はしてないと思う)。

で、サービスとして体をなしていないタクシーに乗りながら、僕はかつてフランスに住んでいたときのことを思い出しました。
フランスの、パリやマルセイユなんかの都会に住んだことのある人はおわかりだと思うけども、フランスの「サービス」の標準値って、日本と比べると恐ろしく低い。
タクシーでも、スーパーでも、お役所でも「ななな、なんなんだ!?」と驚愕するビックリな対応に合うことが結構頻繁にある。

ただし。いい意味で「なんなんだ!?」というスゴいサービスも存在する。要はピンキリなんなだけど、ならしてみると標準値は低い。

なぜこういうことになるのか?

…ということを考えるためには、どちらかというと「なぜ日本は相対的にサービスの質が良く感じるのか?」ということを掘り下げてみるのがいいと思う。

サービスの標準値を決定しているのは、民族性よりも「教育のアベレージラインが安定している」ということにあると思うんだな。
フランスに住んで驚いたのは、当時の日本では考えられないぐらい「教育格差」というものが存在していたことだった。北アフリカからの移民(とその二世)をはじめとして、「そもそもおんなじフランス語とは思えない言語を使っている層」が一定の割合で存在していて、まとまった文章を読めない文盲の人たちが少なくとも5%以上という環境だった(10年近く前のはなし。今はどうだろう?)。

フランスって、基本は「階層社会」であって、高等教育の手順をしっかり踏んでいかない限り職業の自由はない。そしてこの高等教育のレールから外れると、僕たちから見て「フランス的」な言語や生活様式の土俵に上がれない。僕のいた移民街ではケパブのスタンドでコーラを飲みながらケパブサンドを食べる、B-BOYなアラブ系ラッパーの子たちがたくさんいて、たまにそういう子たちと話すと「YO!マジでヤベえー、間違いない!」的なノリのフランス語に驚いたのを思い出す(教科書とか映画に出てくるのと全然違うぜ−!)。

さて。日本ではB-BOYはサブカルチャーのイチ選択肢だけれども、フランスでは「フランス的なものから疎外されたエスニシティのたどり着く必然」という形で生まれる。彼らの多くは、政府の福祉施策で運営されている、一昔前の日本の公団みたいな集合住宅ばっかりの郊外に住み、お話にならないぐらい教育崩壊しまくった学校に通う(以外選択肢はない)。

そういうところで、同じような境遇の子どもたちと育つので不可避的に「マジでヤベえー」的な言葉遣いになり、テレビやラジオで流れてくるヒップホップのミュージシャンたちを真似た行動様式になり、アフリカ(あるいは中東、カリブ)の民族的ルーツを強く意識した人格を形成していく(←ここ重要。あとで説明する)。

でね。
僕が「ななな、なんじゃこりゃ?」とビックリしたサービスの提供者は、かなり多くの場合こういう環境にいる人たちだった(もちろんいわゆるフランス人的な家系でも、都市の低所得層はこういう振る舞いになる)。

十年前だったらこの話は、「いやーフランスって大変なんだねー」と他人ごとだったことだろう。でもNOWどうよ?

日本はフランスに近づいている。
今まである程度広く分配されていた「教育」や「リテラシー」というものが限定的にしか配られなくなり、賃金の高くない仕事にその「教育が配られなかったひと」が着く。

そうなると、街場のサービスの質は低下していく。「どこへいってもみんな親切」とか「心温まるおもてなし」は、日本では水や空気のような「社会インフラ」だったが、フランスではそうではなかった。それは「お金を出して買うもの」だ。
安売りのスーパーと、プランタンみたいな高級デパートでは店員のサービスは天と地ほどの違いがある。流しのタクシーはよくぼったくるが、高級ハイヤーではマジで「漫画に出てくる執事」みたいなナリの運転手が出てくる。

そういう状況は何を生み出すのか。
「お金と社会的地位を持っている人は、そういう人用に設計されたコミュニティ」を選択して暮らし、「お金と社会的地位を持っていない人は、そういう人だけで構成されるコミュニティ」でしか暮らすことができない。

そして社会が上下にレイヤー化される。
上のレイヤーからは、下のレイヤーを見渡すことができて、彼らの行動をコントロールすることができる。そして下のレイヤーからは上のレイヤーは見えない。天の人は地上の世界があることを知ったうえで振るまい、地上の人は、天というものは「伝説」として、メディアやたまたま高級ハイヤーの運転手になった知り合いから伝え聞くだけのものになる。
マジックミラーで一方的に監視されるだけになった境遇の人たちは、親の代で終わったはずの「エスニシティ」で武装することでその視線を跳ね返そうとする。そうやって、「オレたちは誰にも見られていない。オレたちは自由だ」ということを主張しようとする。
そして上のレイヤーになる人は、意図的に彼らのエスニシティを煽ることで、その状況を強化しようとする。下のレイヤーの人が彼らのエスニシティに固執しているうちは、スタンダードな権威は安泰だからだ。

格差社会は、同じレイヤー感でのギャップが見える化されて軋轢が起きる環境のことだが、階層社会はすでにレイヤーが分かれているので、実際の生活の場では、他のレイヤーの人種は「存在しないこと」になる。抑圧や監視の完全な達成は「自分が抑圧/監視されていること自体に気づかない」ということだ。

話を最初に戻す。僕がタクシーに乗っていたときに感じたことは、「すでに格差社会を通りすぎて、階層社会が始まろうとしているのかもしれない」ということだ。

オーサライズされた言語能力やリテラシーを持つ機会を逃した人は、高い報酬を受取る仕事につくための必須条件である「構造的な思考能力」と「微細なコミュニケーション能力」を得ることがほぼ不可能になる。そして不安定で報酬の少ない雇用条件で、スキルを積み上げることなく仕事を転々としていくと、タクシーやスーパー、民間委託を受けた公的窓口のサービスの質は超低下していき、そのイラッとくる対応に耐えられなくて、かつお金を持っている人は、感じが良いかわりに割高なセカンドオピニオンを選択する。

「ちゃんと通じる日本語を話せる」とか「笑顔で相槌が打てる」というスキルは、社会の公共財ではなく、お金を出して買う「商品」になる(水といっしょだね)。

そのうちに、飲食店でもブティックでも美容院でも同じ現象が起こる。
気がつけば、飲んだり旅行したり、ランチで世間話する層が「天のひと」と「地のひと」に分離していることに気づく。

「ヒラクくん、もうやめてくれ。そういうウンザリする話は」

そうだね。でも実は僕の話も限定的なことなんだ。
社会は「都会」だけでできているわけじゃない。全てのサービスがお金でやりとりされるだけではない環境をつくることは、とても小さい領域であればDIYすることはできる。

僕の住んでいる社会は変質している。
その先にある、「最悪なケース」と「少しの希望がもてるケース」の両方を、僕は今までの経験からなんとなく見ることができるようになってきた。

そのうえで、さてどうやってふるまっていくのか、自分よ。

 

【追記】フランスの悪口を書いてしまったようで申し訳ない(このブログを読んでくれているフランスの友人もいるし)。実はフランスにも超アベレージの高い文化がある。それは、「パン屋さん」と「カフェ」だ。この二つは朝早くから夜遅くまで本当に一生懸命フレンドリーに働いて、安くて美味しい。この文化はいつまでも無くならないでほしいぜー)

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