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エンターテイメントとしての「会議」

雑感の途中で、ちょっと気づいたことがあるので記しておきます。
昨日は時差ボケで「打ち合わせでパフォーマンスが発揮できなかった」というようなことを書きましたが、よくよく考えたら決めるべきことは決めたので「役割は果たした」わけなのでそんなに悔いることはないはずなのですが、僕の論点ではそこではなかった。
「会議というものをエンターテインしきれなかった」ことに対する悔悟がそこにはあったわけです。その時起こっていたことは、こんな感じです。
何の捻りもない相づちを繰り返し、的確な論点を見いだせず、あいまいな笑みをうかべながらしどろもどろに話す自分を、もう一人の幽体離脱した自分が冷静にその無様な姿を観察している。
そして、上手く行っている自分のイメージをそこに重ねながら逆算的に「何をしている時が上手くいっているのか」を計量していきます。
で、それが何なのかというと、打ち合わせ出席者(身内・クライアント問わず)のみんなと「話す→見つける→共有する→飛躍する」という対話の醍醐味・興奮を味わうために様々なテクニックを駆使せんとする己の献身的な姿でした。
何が論点であるのかを探るために、あらゆる可能性を推論し、理解を深めるために言い換えや比喩を持ち出し、場を和ませるために話の腰を折り…それは全てはエンターテイメントであり、会議を遂行するための手段が目的になっていたという、衝撃的な答えでした(少なくても僕にとっては)。
昨日の僕には、その「エンターテインする能力」が欠けていた。そこに対してガッカリしたのです。
さて、分析をさらに進め「なぜ自分がそのような行為に走るのか」を考察していくとどうなのか。
答えは、僕は基本「会議や打ち合わせは不要である」と思っているから。
継続的に仕事をさせてもらっているプロジェクトのうちいくつかは、驚くべきことに酒を飲んだり与太話をするだけで、会議らしい会議、打ち合わせらしい打ち合わせをしないというスタイルで結果を出しているものがあります。
企画書を書かず、凝ったプレゼン資料をつくらず、前もって話す内容を決めず、細かな進捗共有をせず、それでも成せることがあるのです。不思議なことに。
合同会社++も、週に一度の定例会を除くと、形式張った会議はなくお茶を飲んだりご飯を食べたりしたり、散歩をしながら色々なものが片付いて行きます。
これが成り立つ条件は原則一つだけ。前にもお話した「共感しまくっていること」です。
この不思議なパワーが発揮されていると、色々なものがオートノミー(自律的)に進行し、お互いのやるべきことを認識し、「こいつがやるって言ってるんだから、イケてるに決まっている」と信頼し、何か困ったら「まあ茶でも一服」といって都度相談する。トラブルが起きても、驚くべきスピードで自己治癒力が作動し、なんとかなってしまう。
僕の最も理想とするスタイルはこんな感じです。だけどもちろん、プロジェクトの人数が多かったりステークホルダーが複雑になってきたり、予算額が大きかったりするとそれだけではないことがでてくる(たまにそれでもなんとかなることがあるけど)。その時に必要になるのです。「会議」というやつが。僕もあと半年で30歳になる大人ですから、それは重々承知です。
だからこそこう思うのです。「本来はいらないものに時間を使うのだから、せめてみんなで楽しもう」と。つまり、形式化した会議というものを「ハッキングする」という発想にたどり着きます。
会議という形式を取りながら、相互の言葉に火花が散りながら論理が飛躍し、おのれの進むべき道や大事にしているものが見つかって行く過程、つまり「人生劇場」のエッセンスが感じられるスペクタクルを目指そう、と思ったのです(後付けの理屈ですけど)。
それが、ミイラ取りがミイラになる的な構造によって、前述した状況になっていったわけですね。
というわけで、いつのまにか打ち合わせの場というのは、自分のなかで「芸」の場であるという認識になっていたわけでした。
それはそれで結構楽しいのよ。

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