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あらためて「共感」というヤツを捉えてみる

「あの人のこと、共感する!」って、日常生活でよく口にしたり思ったりします。あるいは、素晴らしい小説や歌の歌詞に触れたときに「これは私だ。私のことを別の人がこんなにも理解してくれている」といって感動することもあります。

思えば僕は昔から、この「共感」という感覚をとりわけ大事にしていました。

初めて会ったのに、昔からの親友のように話ができる。かゆい所に手が届くような、言語化できない気持ちをなぜか共有してしまっている…。こういう「話がはやい」状態を多いに愛してきたのです。

 

がしかし!

社会人になる頃から、この「共感」の意義は徐々にフェードアウトしていきます。むしろ「共感」なんてものはぬるい学生ノリのものであって、もっとシビアな関係性でもってやっていかなければいかん!と。なぜかそういう風に思ってしまったりしたんです。

じゃあそのシビアな関係性って何よ、って話ですが、今思えば大半は「上下関係」あるいは「契約関係」だったのでは…と思い当たることもしばしば。

そこから社会的なルールや心得をたくさん学んだので、そこはとっても感謝しているのですが、こと仕事が「上手くいった」例を考えてみると、実は「共感」の関係がベースになったものが多かった気がします。

人それぞれ性格は違うと思いますが、僕はとにかく「話がはやい」状態で事を進めるのが向いているみたいで、そうでない関係だと気持ちが萎縮してしまうみたいなんですね。具体的に言うと、ある内容を伝えるにあたって適切な言葉使いを選びたいがために必要以上に神経過敏になったり、小さな行為一つをめぐって「これは自分の信頼にプラスになるかマイナスになるか」とナーバスになったりする。

そういうことを考えているうちに、アイデアとかイメージとかが「生のもの」じゃなくなってくる。アツさが失われてくる感覚があるんですね。今思えば、そこが質の違いを生んでいたのかなと。

「とにかく面白いこと」に向かって突き進んで行くのと、「ミスをしないこと」が目的になっているのと、やっぱりアウトプットが違ってきます。

というわけで、最近僕は「共感」の関係性に注目しています。それは、人の潜在力を呼び起こすベースになり得るんですね。綱渡りのアクロバットに命綱が必要なように、表現のアクロバットのは共感による信頼が必要かなと。

新しい方法論が必要な時代には、トライアルアンドエラーが必須です。「失敗しない方法」は行き詰まりになる可能性が高い。そんな状況とは裏腹に、組織も自治体も個人も追いつめられてますます「失敗」が許されない状況になっている。そんな時でも、共感関係は事前に失敗した時のリスクを確認して事に臨めるから、面白いことができる可能性があるかなと思っています。

というわけで理想として、関係性としては共感で徹底的に突き抜けて、姿勢としてはプロフェッショナルとしてミスなく事に臨む、というバランスに挑戦したい!と思うのです。

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