高校生の時に愛読していたカート・ヴォネガットの小説を改めて読み返していました。
そこで色々と感銘を受けることがあったのでブログにまとめておきます。

パラダイムの不条理さを可視化するSFの手法

ヴォネガットの小説が当時の若者たちに人気があったのは1960〜70年代。つまりアメリカはじめ先進国の若者たちが政治やオルタナティブなライフスタイルに強く興味を持っていた時代にヴォネガットは「過去の規範にとらわれない新しい価値観」を示したわけです。

で、ここがポイントなんだけど、オルタナティブな価値観をストレートにではなく、SFとして表現したこと。ヴォネガットが現代の社会が抱える問題をストレートには取り扱わずにSF的手法の裏に隠すのは「僕たちがいかに不可思議なパラダイムに囚われているか」ということから話を始めたいから。

いつの時代に生きる人も「自分たちが最も適正に進化した必然的な世界に生きていること」を信じたがる。でも何百年後かに振り返ってみると僕たちは不条理な世界でコメディを演じているわけです(魔女裁判とか)。
その時代、その文化に伏流しているパラダイムによって人間の価値観や倫理、行動が形成されていく。だからヴォネガットの小説には絶対的や悪人や善人が出てこない。ヴォネガットが取り扱うのは自由意志によって動く個人の正悪のレイヤーではなく、構造(パラダイム)のレイヤーです。

でね。この構造のレイヤーをわかりやすく可視化するためにヴォネガットはSFの方法論を利用した。

問題の渦中にいるといくら頑張っても解決法は見つからない。なぜなら問題をもたらしているのは悪人やルールの不備ではなく、その世界の成り立ちそのものだから。渦中の人は自分の存在意義がなくなるのが怖いのでよりいっそう問題を複雑にする。その悪循環に穴を開けるヤツはいつも外からやってきます。それがヴォネガットの小説では、トラファマドール星人やキルゴア・トラウトというトリックスターを使って、世界を支配するパラダイムを茶化して相対化していくわけですね。

「スローターハウス5」ではじめてヴォネガットが自身のドレスデン爆撃の記憶を語ることができたのはトラファマドール星人という「パラダイムの破壊者」を媒介にすることで、戦争の「悲惨さ」を超える「無意味さ」まで自身の体験を相対化できたからです。

戦争に対する一切の意味付けを破壊するためには、ヒューマンドラマではなくSFにしなければいけなかった。

人は自分が暴力の対象となった時ですら「これは自分が成長するための試練なのだ」と無意識に「意味付け」をしてしまう。でもその暴力の本体は不条理な世界の歪みが具体化したものでしかない。ヴォネガットは「自分が受けた暴力は無意味だ」ということを渦中の人として言い切るためにSFを利用した。

意味の呪いを振りほどく物語の力

60年代にヴォネガットが若者からの熱狂的な支持を得たのは、彼らが薄々気づいていた社会の不条理さを暴いたからです。親世代が若者に説く「君たちが背負わなければいけない義務には国を救う意義があるのだ」という刷り込みが嘘であることを代弁してくれる「話のわかるおじさん」がヴォネガットでした。

「君は自分の未来のために◯◯をしなければいけない」

という年長者からの進言は、しばしば「オレの未来のための生贄になれ」という呪いのポジティブ変換というかたちをとります。何かを学ぶということは、こういう卑怯な脅しから自分自身を解放することです。学ぶこと、行動することで人は自由になる

「今私がいる世界は不条理である」
「今私が受けている暴力は無意味である」

ということを言葉にすることはとても難しい。「私自身の無意味」の表明に思えてしまうからなのですが、しかし世界の無意味さを表明しても自分の人生は終わらない。なぜなら自分の世界の他にもたくさんの世界があるからです。

人を拘束する最強の呪いは「自分はこの世界以外では生きていけない」という思い込みです。文化の違う国へ旅したり、価値観の違う人と出会ったり、違う時代や世界に書かれた本を読んだりするのはこの呪いを解いて「自分は自分で望む世界で生きることができる」と自由に向かって一歩を踏み出すため。

ヴォネガットの小説は、荒唐無稽さを装って苦難の時代に生きる若者たちの魂を自由へと導くリアルな寓話だったんだね。

【追記】ヴォネガット入門に最適なのは『猫のゆりかご』『タイタンの幼女』あたり。『スローターハウス5』や『スラップスティック』も大好き!

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