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「愛の皮をかぶったビジネス」と「ビジネスの靴下を履いた愛」。『逃げ恥』と『タラレバ娘』は人生というコインの裏表だ。

本質はつねに隠されている。
隠されているという事実そのものが、本質を「欲望が掻きたてられるもの」にする。

「本質を見る」ことは、本質そのものを見ることではなく「本質のうえにかけられている布を通して、本質のカタチを類推する」ということだ(←こう書いているだけでなんかやらしい)。

僕はなんの何の話をしているのだろうか。
『逃げ恥』と『タラレバ娘の』の話をしているのであるよ。

『逃げ恥』と『タラレバ娘』はコインの裏表だ

『逃げるは恥だが役に立つ』と『東京タラレバ娘』は、ちょうど同じ頃に原作の漫画を読み始めた。最初はそれぞれを別個のものとして読み込んでいたのだが、最近『逃げ恥』のドラマを見ているうちに、実はこの2つの少女漫画は「コインの裏表である」ということに気づいた。

結論から言おう。
『逃げ恥』と『タラレバ娘』は対になることで「結婚とは何か」という深遠な問いの答えのアンサーになっている。
タラレバ娘は「愛の皮をかぶったビジネス」であり、逃げ恥は「ビジネスの靴下を履いた愛」なのであるよ。

以前からブログで定点観測しているように『タラレバ娘』の「イタさ」の原因は「愛を取引関係=ビジネス」としてみなすことに端を発する。

・なぜKEYくんは「隣り合って」座るのか?『東京タラレバ娘』の倫子さんが不憫すぎる件

タラレバ娘たちは、愛を「自分を高めるもの」「自分を喜ばせるもの」としか見ていない。いかにそれっぽいポエムをしたためたところで、それは「自分、圧倒的に成長して突き抜けたいんス!」と息巻くベンチャー企業の新卒社員と同じで、徹底的にセルフィッシュであり、ビジネスライクなのであるよ。

だから、ビジネスと恋愛は常に「天秤にかけられる」ことになる。
両方が釣り合う可能性は、限りなくゼロだ(ごくまれに発生する「釣り合ってる愛」はタラレバ娘には手に入らないのだが「ゼロではない」ことを言い訳に、天秤を手放せない)。

タラレバ娘たちが「愛が欲しい」と強く願えば願うほど、彼女たちはビジネス原理の罠に落ち込んでいく。彼女たちが「愛」だと思っているものは「愛の皮をかぶったビジネス」だ。

いっぽう『逃げ恥』はいかがであろうか。
『タラレバ娘』の特徴が「イタさ」だとすると、『逃げ恥』の特徴は「エロさ」なのであるよ。その理路については、アマノ食堂の連載コラムをご一読いただきたい。

・一緒のほうが幸せなのに、あえて分けるというエロス。鯛茶漬けは最強の『逃げ恥飯』だ!

『逃げ恥』では、結婚における二大要素「愛(セックス)」と「ビジネス(家事)」を分割し、前者の愛を排除する。
しかしいざ結婚して1つ屋根の下に住んでみると、そこには「愛」が不可避的に発生してしまう。しかし建前上は「ビジネス取引」なので、「愛」は抑圧され、隠されることになる。

ていうか、平匡さんもみくりさんも隠しているつもりが、周りには「愛」がダダ漏れなのであるよ。この「彼氏のシャツを借りて着ている華奢な女子」みたいなエロスが『逃げ恥』の核心だ。みくりさんと平匡さんが「これはビジネスなのだ」と唱えれば唱えるほど、ビジネスという服の下に隠された裸体=愛が透けて見える

つまるところ、結婚の本質とは何なのだろうか?

『タラレバ娘』において「愛という建前」は「ビジネスという本音」を露出させる。いっぽう『逃げ恥』において「ビジネスという建前」は「愛という本音」を浮き彫りにする。

「愛」と「ビジネス」がコインの裏表となる「結婚の本質」とはいったい何なのであろうか?

それは「ビジネスというドアを開けて入り、愛というベッドに入って寝る」ということだ。
もっと言えば、ビジネス=イニシエーションであり、愛=ファンタジーということだ。さらに言えば、コントロール不能なファンタジーによって破滅しないために、イニシエーションを行って「禊(みそぎ)」をしなければいけない。

この「禊」が結婚にあたる、と僕は考える。

というのもだな。
去年から各地のこじらせ女子たちから寄せられるとほほな恋愛エピソードを聞くなかで、「もしかしたら彼女たちの根源的な苦しみは、『愛の破壊的パワー』を侮っていることなのかもしれない」と思うようになった。

「私は自分の意志によって『愛』を飼いならすことができる」

と思っているとしたら、それは間違いだ。
「愛」は人間が人間になる前からプリセットされている。愛は人間が作り出したものではない。「誰か自分と違う者と交わりたい、遺伝子を再生産したい」という強い衝動が、僕たちの脳みそをジャックし、恋愛感情やフェティシズムという「イリュージョン」を生み出す。

脳が愛をコントロールしているのではない。愛が脳をハッキングしている。
そのバグが「平匡さん、可愛い!ハグしたいッ…!」という幻想を見せる(みくりさんに)。

ビジネスという建付けのドアを開けて、結婚という部屋に入ったらそのうち愛が自然発生する。愛は「選択」ではなく「前提」だ。だから『逃げ恥』の順番が結婚においてエッセンシャルなのであるよ。

自分の主体的な意志や心がけで愛をコントロールすることなどできない。
しかしダダ漏れの愛を放置しておくと、社会的にたいへんよろしくないカオス状態になる。

だから「しょうがなく」、結婚という「ビジネス契約=イニシエーション」という仕組みが生まれた。婚姻関係という「戒律」によって、「愛」の暴走から人間の社会的アイデンティティを防ごうとする。これが結婚の本質だ、と僕は思う。だからどんな社会においても婚姻関係がある程度「禁欲的」になるのは当然だし、契約不履行について罰(慰謝料とか)が与えられるのも必然なのであるよ。

そうでもしないと、僕たちは「愛の奴隷」になる。
そして現代には「愛を飼いならしているつもりで愛に飼われて」いる、意識の高い猫ちゃんみたいな人がいっぱいいる。

「結婚」は「愛を育むもの」ではなく「破壊的な愛の本質から目をそらすための装置」だ。
新婚時代はラブラブかもしれないが、そのうち子どもができたり義父母の人間関係がめんどくさくなったりお互いがたるんだおっさんおばさんになる等のイベントを経るうちに、愛というモンスターは「こいつらもうやる気ないから他のところ行こっと」と言って去っていく。

つまり「結婚」は目指すべきゴールではなくて、破滅を防ぐためのセキュリティアライアンスなのであるよ。自分ひとりでは「愛」に太刀打ちできないからこそ、他者と力をあわせなければいけない。そして他者と協力関係を結ぶためのイニシエーションとしてビジネス=契約が必要になる。

『タラレバ娘』のエントリーでも書いたように、結婚するふたりが目指すべきは「向かい合って愛しあう関係」ではなく「隣り合って協力しあう関係」だ。

『タラレバ娘』と『逃げ恥』に見るキャリア観の違い

最後にちょっと話題を変えて「生きかた」について。
2つのドラマの主人公を見比べてみると、「仕事に対するモチベーション」が明確に違う。

『タラレバ娘』においては、仕事は「自己実現」であり、自分が存在する理由だ。
しかし『逃げ恥』においては、仕事は「稼ぐことに必要なこと」であって、みくりさんも平匡さんも、平匡さんの会社の同僚たちも「上昇志向」が薄い。つまり「仕事=人生」とは思っていない。

これが「結婚すること」に対してのハードルを下げている。さらに『逃げ恥』の登場人物たちは別に「結婚=人生」だとも思っていない。仕事は仕事であり、結婚は結婚であり、友人関係は友人関係であり、それを行ったり来たりしながらモヤモヤし続けるのが「人生」だ。

みくりさんや平匡さんの人生は、倫子さんやKEYくんの人生に比べると地味だが、そこには不思議な風通しの良さがある。それは「キャリアアップや恋愛結婚という明確な人生の到達点」を望まず、日々起こる色々な出来事にいちいち悩んだり迷ったり妄想したりしつつも、自分にとってよりベターな方へちょっとずつ進んでいく姿への共感だ。

「逃げるは恥だが役に立つ」における「逃げ」は、人生総体において前に進むための「局所的逃げ」であって、みくりさんも平匡さんもちゃんと「303号室」に戻ってくる。
「タラレバ娘」は、今起きている様々な問題に全力で向かい合いすぎるために、人生総体においてハードな後退戦を戦わざるを得なくなっている。

「仕事は仕事」「愛は愛」「友だちは友だち」。
そんな当たり前の「割り切り」が人生を軽く、風通しよくすることがある。

強すぎる愛や情念に振り回されてディープなカオスにはまる快楽もあるかもしれないが、マイペースで適度にウジウジしながら「それなりに楽しい暮らし」に向かって歩いていく人生も悪くない、と発酵おじさんは思うよ。

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