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「人前で人の話を聞く」という芸能。

3年ほど前から、司会や聞き手として「人前で人の話を聞く」という仕事をたくさんしています(たぶん50回以上やっていると思う)。

講演やプレゼンなど「人前で話す」ことはわかりやすく「芸」です。そして実は、「人前で聞く」のも立派な芸なんですね。

「誰かが壇上で話す→聴衆が聞く」の関係性のあいだに入り、「壇上に上がって話を聞く」という、一見何のために存在しているかわからない役割。
それが「人が集まって話をする」という空間を、井戸端会議から「パフォーマンス」へと変貌させるのです。

演劇としてのトークイベント。

朝起きてから夜寝るまで、職場とか学校とかご近所とかで何かしら人と話をします。レストランや居酒屋では、テーブルを囲んでグループで会話を楽しんでいる。「話をする・聞く」という行為は、ほとんど誰しもが日常的に行っています(そんなのリア充だけだろ!というツッコミは無しで)。

にも関わらず、世には「トークイベント」や「講演会」、「シンポジウム」なんていう、「他人が話すのを聞きに行く」イベントが星の数ほど開催されている。

考えてみれば不思議だよね。
別に参加費払ってなんとかホールに行かなくても、近所のジョナサンでできるじゃん、トークイベント。

さて。では人は何を期待してトークイベントに行くのか。

その期待には、「専門家の知恵を聞きたい」という「実用軸」と、「あこがれのタレントやアイドルがリアルに話し、動いている様を見たい」という「あこがれ軸」の二つの軸があります(乱暴なくくり方ですが)。

「生活習慣病にかからない食事法を知りたい」というのがわかりやすく前者なんだけど、登壇するのが「テレビによく出ている若くてイケメンの先生」だったりすると、期待値があこがれ軸に傾きます。

「話の内容」あるいは「登壇者のアウラ」。どちらにせよ人はトークイベントに「何かいいコト、非日常的なコト」を期待していくわけです。そう考えてみると、ジョナサンの井戸端会議とトークイベントを隔てるのは、「演劇性」にあるのではないか、とヒラクは思うわけです。

演劇を演劇たらしめる「場のDJスキル」

トークイベントは本質的に演劇である、と定義しました。

であるならば、次に問われるのは「せっかく見るなら面白い芝居がいいよね」ってことです。

はい、ここで必要なんですよ。司会芸が。

本では良いコトを書いている人が、話も上手とは限らない。
あるいは、何度も何度も人前で同じことを話し続けているので、話し口がスムーズすぎてココロに響かない。
さらに、複数人が出るトークセッションの場で、誰かが暴走してしゃべりっぱなしになる。

こういう事が起こると、観客的には「金返せ!」ってなことになります。それを防ぐためには、話の場を調整し、盛り上げる「場のDJスキル」が有効です。

バラエティ番組を見ていると、「司会をするだけの芸人」ってのがいるじゃないですか。タモリとか、今田耕司とか、究極は欽ちゃんとか。彼らの立ち振る舞いは正に「場のDJ」なんですね。

司会の本質は、コンテクストよりもむしろフィジカルなのか?

「司会」と聞くと「話の論点をひろって次の展開につなげる」とか「とっ散らかった話題を整理して場をまとめる」なんている作業をイメージしますが、これはあくまで「コンテクスト(文脈)」視点での見方であって、この技術をもってすれば「司会芸」が成り立つものではない。

ポイントは、「フィジカル(身体性)」です。
相槌を打つタイミング、トーン、観客を盛り上げるパフォーマンスなど、非言語的な要素が「トークイベントとしての密度の濃さ」を作り出す。

例えばタモリさん。
タモリさんの凄さは、実は「体軸がぶれない」というところにあります。「笑っていいとも」でも「タモリ倶楽部」でも、どんなゲストでどんな話の展開でも、体軸がブレない。のけぞったり前のめりになったりしない。したがって、声のトーンもブレない。(だからこそ、突然の「イグアナの物真似」の破壊力が際立つ。スローカーブ投手がたまに投げる130kmのストレートが豪速球に見えるように。超余談ですけど。)

聴衆にとって、その価値は何か。
「この人といれば、荒れ狂う夜の海に遭難したとしても大丈夫」と思わせる「安心感」にある。ただ面白いことを言う、頭の回転の速さを披露しようとしている「にわか司会芸人」にはマネできない境地が、ここ。

トークという「ライブの場」では、実は非言語的なサインのやりとりが果たす役割がすごーく大きい。タモリさんの体軸がブレないとか、欽ちゃんが登場時に発する第一声のテンションの高さとか、こういうフィジカルな所作がメタメッセージとして会場にこだましている。

「人前で話を聞く」という仕事を何度もするうちに、自分が歩んでいる道の先にはこういう「芸人」が待っているのではないか…と思うようになってきた次第です。

編集としての「聞く」、演劇としての「聞く」

えーと。僕がこんなことをつらつらと書くのは、実はアサダワタルくんという「ハイブリッド芸人」との付き合いがあるからで。

彼は、地域のコミュニティに入り込んで不思議なワークショップを色々やっていて、最近ではラジオのDJとして色んなゲストと話をしている。
そういう意味では、「人前で話を聞く芸」の道を歩んでいる。

なんだけど、彼がハイブリッドたる所以は、「話を聞いたことを、本にまとめる」という作業をしているとこなのだな。

考えるに、「話を聞く」という行為には二つの極があって(またこの例えですまない)。
一つは「編集軸」。インタビューコンテンツとして話をまとめる前提の「聞く」。もう一つは「演劇軸」で、その場におけるおもろい「対話の生成」を目指す「聞く」。つまり、「取材して構成しなおして本や記事にする」と、「純粋に司会やファシリテーターとしてパフォームする」のあいだのバランス。

さっき「コンテクスト」と「フィジカル」の話を出したけれど、「編集としての聞く」にフォーカスするならば、今度は断然「コンテクスト」が重要になってくる。活字にするために、「読んで面白い話」を引き出していく。

で、僕はいわゆる「編集として聞く」の人ではないので、「人前で話を聞く」とは、純粋にその場で完結するパフォーマンス。

…とここまで書いてわかった。
バラエティ番組が書籍とかの活字コンテンツにならない原因はここなのだね。そもそも活字にならない非言語コミュニケーションのパフォーマンスを言語化することほど野暮なことはない。

まとめ:僕が目指す「司会芸」とはなにか

てなわけで、「話を聞く」という芸も実は色々あります。
色々あるわけですが、じゃあヒラクくんはどうするの?ってな話ですよね。

場数を踏んでいくと、自然に自分の得手不得手がわかってきます。
そんで僕の得意なことって何かというと。

・相手の面白いところ、優れているところを定義して愛でる

ほら、料理を食べたときに「いかにこれが美味であるか、持てる限りのボキャブラリーを尽くして表現する」みたいな芸があるじゃないですか。
これの人間バージョン。

面白い話を聞いているときに、聞いているみんなが「あ〜、面白いなあ。この面白さって、なんて言えばいいんだろうね」と思った瞬間に「みなさん、面白いですね〜。この面白さはなんて表現するんでしょう。例えて言えば…………(←任意の表現)ですよね」と定義し、「そうそう!ワタシもそう思ってた!」みたいなコミュニケーションを作り出したいなと。

そう考えると、「司会芸人」というのは不思議な存在です。
ある意味、「聞き手代表」であり、立ち位置がよくわからないくせに、場の空気を操作している、「うさぎ=トリックスター@山口昌男」でもある。

その、「うさんくささ」故に、「クリエイター」とか「ファシリテーター」的な横文字ではなく、「芸人」というワーディングがふさわしい。

司会芸人がご入用のお仕事ありましたら、ご一報を。

追記:こないだ石神井公園のギャラリー、knulpAAで行われた「聞く人に、聞く@ホトリニ展関連トークイベント」の感想が面白かった。町田兄さん、どうもありがとう!記事はこちらから。

 

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