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「デザインあ展」と「注文の多い料理店」。

こんばんは、ヒラクです。
あわわ、慌ただしい。なかなかブログが更新できずボロ雑巾のようになっております、みなさまお元気でしょうか。
さてさて。
けっこう前の話ですが、展覧会や観劇に行って思ったことをメモ。
まずは、六本木の21_21 デザインサイトで行われた「デザインあ展」。
これ行ったひとも多いと思いますが、いかがでしたか。
ヒラクの印象としては「非常に分析的である」と思いました。ただし、見せ方は徹底的に「直感的」に翻訳してある。だから、ママパパが子供連れで来て楽しめる(そういえば、あんなに子供が多い展示会ははじめてだったかも)。
で。僕思うんですけど、「分析的」であり「直感的」であるのって、デザインの本質だなって思ったんですよ。
例えば、100円で買える様々な物のマス(質量)を並べて「貨幣=情報」と「文房具や水=モノ」の関係性を対比させて展示する。
例えば、1cmから1mまでのサイズのお寿司を並べて「ちょうど良いサイズ」を見つけてもらう。
ただモノが並んでいるだけのところから、「自分の手のひらにフィットするサイズ感」とか「小さなコインが何十リットルの水を交換できる」とか、言語にすると割に高度な認識をしていく。
これって、「直感的に認識しているものが成り立っている構造」を分解(この展示会では「解散」というラブリーな表現にしていますが)あるいは翻訳しているっていうことだとヒラクは思いました。
ポイントは分解/翻訳した後のアウトプットが「インスタレーション」であることです。コーネリアスのテーマソングにあわせて壁や床に数字や図形や色が映し出される。それは自然界や人間社会を構成しているエレメント(元素)の規則性を子供たちにリズムとハーモニーに乗せて叩き込んでいるんですね。
というわけで、僕は「フィジカル/センシュアルな合理性」を幼児にもわかるようにまで落とし込んだことがこの展覧会の見どころだと思いました。
「合理性」というと、一件「ロジックや理性」要は「言語」に紐づけて考えてしまいますが、そんなこともない。
「雪の結晶や蜂の巣がどういう構造をしているか」という所から始まって、「どうやって茶碗を持ち、どうやって箸の重さを認識しているのか」あるいは「どうして闘牛士の持つ旗は赤色なのか」というメカニズムに至るまで、人間や生き物の行動は様々なレイヤーの合理性にもとづいている。
「言語領域とは別のリテラシー」を鍛えるという意味で、「デザインあ展」に子供を連れて行った親御さんは直感的に正しい行動をしていると思うんですよね。
そしてもう一つ。
小池博史ブリッジプロジェクト公演「注文の多い料理店」。
これも僕の周りには見に行ったひと多いと思うんですが、どうでした?
宮沢賢治の世界観を、ダンスとも演劇ともつかない不思議なスタイルでリミックスした舞台、ヒラクとしては大変楽しませてもらった舞台でした。
アフタートークでなぜか話を振られて答えたことをブログにも転機しておきます。
この舞台は、とにかく身体的な「カタルシス」がすごい(要は気持ちいい)。
それはなぜかというと、3人の役者の動きは、「動物としての人間」の躍動なのです。「風が強くて飛ばされる~」とか「お腹が減ったぞメシが食べたい!」みたいな、「生存に関わるニーズ」が高まったときに発動する動きをダンス的にデフォルメする。それはある種の「生物学的動作」の演劇化と言っていいんじゃないかと思う。
で、そういうものを見て「気持ちいい~」と感じてしまうということは、逆説的にヒラクの日々の動きは「生物としての生存行動」から疎外された動作で成り立っているとも言える(とほほ)。パソコンのキーボードをカチャカチャ叩いたり、エレベーターをスムーズに乗り降りできるように歩みを調整したり、不条理な叱責に内心「しょうがねえな」と思いつつ平身低頭したり、僕の80%くらいはこういう「身体」なのですよ。
そんな折にこの舞台を見ると「そうだよ、からだってのはこうじゃなくちゃね!」という風に、身体の奥底から抑圧された「アニマル」がずずずずっと迫り出してくる。
あ、わかった。ハンターとケモノが一人二役だったのは、そういうことなのね。
小池さんがイメージしたのは、抑圧されたケモノが、人間としての自分を「がおー」と喰べてしまうという、なかなかにワイルドな状況なのだったのか。
抑圧的な身体が食べられてしまうことにカタルシスを感じるって、なんかカマキリみたい。

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