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「…であるべき」と「…であってもいい」

考えてみれば、僕がやっていることって、「…であるべき」に対して、「…であってもいい」と言うことだったような気がします。色んなジャンルで、色々なプロジェクトをやっていますが、通底しているのは、そこに尽きる。
「…であるべき」と、「…であってもいい」。
まあ、言ってみれば精神論なんで、自分の熱い想いを云々…と語りたくなるところなんですが今夜はそのニュアンスの違いをややシステマチックに考えてみましょう。ヒラクの解釈でいうと、「…であるべき」はものごとの『中心』を指しています。対して、「…であってもいい」はものごとの『縁』を指しています。つまり、はじっこですね。
真ん中を指すか、はじっこを指すか。これは同じことを取り扱ったとしても、大きな違いをもたらします。
例えば、前例のないプロジェクトを実行したとする。それを、「これからの社会は…であるべきだ」と言うか、「社会のなかで…であってもいい」と言うのは大きく違う。何が違うかというと、求めるものが違う。
「…であるべき」は、賛同を求める発言で、「…であってもいい」は、共感を求める発言だと思うんですね。
賛同の裏返しは反対で、共感の裏返しは違和感だと思うんです。「…であるべき」の裏返しは、「…であってはならない」で、「…であってもいい」の裏返しは、「…でなくてもいい」です。
何が言いたいかというと、敵対関係になることをどう捉えるか、という事なんですね。真ん中は取り合いになるんですけど、はじっこは取り合いにならないんです。真ん中は一つしかないけれど、はじっこは無限にある。
僕は、この「無限にあり得る」、「どうあっても構わない」という価値をなんとか伝えようと、色んなことをやっている気がするんです。常にプレッシャーがかかってくる「…であるべき」に対して、「…であってはならない」と返すのではなく、「…であってもいい」とある意味はぐらかすような事に意味を感じているのではないか、とふと思うんです。
年が二回り以上離れている人に議論を持ちかけられるとよく「もっとぶつかってこい!」とか、「もっとアツくなれよ」とゲキを飛ばされて、「すいません、ユルくて」と恐縮してしまうのですが、もしその理由を説明するとすれば、「…であるべき」 に対して「…であってもいい」で応酬しているので、話の腰が脱臼してしまうんですね。
それは僕の性格もあるんですが、時代の変換期にいるということも大きな理由だと思います。
というのは、「闘う」ということに対して、「どう闘う」よりもまず、「なにをもって闘うのか」を問う時期に直面しているということなのではないでしょうか。相撲なのか。プロレスなのか、ボクシングなのか。それかそもそもスポーツじゃなくて、どれだけモテるかとか資格何個持ってるとか。
政治の状況しかり、人間関係しかり、ビジネスしかり。ものごとの「土俵」自体が怪しくなってきているので、勝つか負けるか、正しいか正しくないかより、とにかくたくさんの「可能性」を考えてみる必要がある。
ここ何十年か、恐らく僕の先輩たちは、ルールがフィックスされた土俵の上でいっしょうけんめい闘っていた。いっしょうけんめいだったけど、ルールは疑わなかった。そして、僕はいまそのルールを疑っている。しかも、超いっしょうけんめい疑っている。闘う時間があったらまずそのルールを解体して、別のルールを提示することに注力したい。
…とまあそんな事を感じながら、僕は日々動き続けているような気がします。
今日も抽象的な話ですが、何となく同じことを考えている人がいることでしょう。
それではおやすみなさい。

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