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「つながり」と「連帯」の違いを考える

こんばんは、ヒラクです。
さいきんあちらこちらの人から「つながりをつくりたい」というような話を聞きます。恐らく震災以降、さらに顕著になった時代の要請だと思うのですが、最近僕はその話を聞くたびに、素朴な疑問を持ちます。
「つながるって言っても、何をもってしてつながるのよ?」と。
ヒラクの定義で言いますと、「つながり方」には二つの極があると思うんですね。一つは無目的な、限りなくゆるいつながり。もう一つの極は、目的ありきの、ルールのあるつながり。
前者は、例えばどこぞの居酒屋の常連グループで、後者は反政府ゲリラのグループ等が想定されます。で、ここ最近多くの人が望んでいるのは、どんな塩梅のつながりなのだろうか。答えは恐らく、2つの極でいうと、真ん中よりやや後者よりのつながりなんだと思うんですね。定義としては、
■ 目的が設定されていつつ、拘束力がゆるい
そんな塩梅のつながり、コミュニティーを求めているのではないのでしょうか。
ここからは僕の仮説です。恐らく震災を境にしてターニングポイントがあったと考えられます。震災以前は、「つながり」というと、サークル的な、私的でどんな人でも参加可能な「ゆるい」ものが企業や組織というものの反対側に置かれ、一種の「息抜き」や「安らぎ」として設定されていたように思えます。しかし震災以後、「どうやら社会システムがおかしいらしい」、「大きなシステムに頼ると危険だから、主体的に何かをしないと危ないかもしれない」という意識が目覚めた結果、どうなったか。
エネルギーや農業、まちづくりなどを考え直すための「相互扶助」的なつながり、コミュニティーが求められるようになりました。
…さて、この仮説がおおむね正しいとすると、これって、「つながり」というよりは「連帯」という言葉がしっくりくるような気がするんですね。例えば時代が60年代だったとすれば。しかし、周りを見回してみると、「連帯」という人はめったにおらず(年代によってはそう言っている人がいるのかもしれませんが)、暮しや社会を考える仲間と「つながる」のだと言っています。
ヒラク的には、このニュアンスが非常に大事だと思うんですね。
いま言われている「つながり」と「連帯」は、目的が設定してあるという意味では共通です。が、「連帯」にはルールやある程度の拘束力が連想されるのに対し、「つながり」にはそういう拘束力は感じず、あくまで「ゆるく」、「できる限りで」、「自発的意思」のもと関係性を結ぶのだ、というニュアンスが感じられます。
世代、肩書きや健常者/障害者などの条件を超えた関係性を考えていく上でも、この「目的は共有するけど、ルールはなるべく共有しない」というニュアンスは必然かな、と思うのですが、実はこれって結構難易度高いと思うんですよね、実際。
強制されず、自分なりの関わりかたで、ある問題を解決したり考えたりするために行動する。しかもそれを持続する形で続ける。口では簡単ですが、実際にカタチにするのは大変だと思うのです。(逆説的ですが、それが大変だからこそわかりやすいルールや拘束力に説得力があるんでしょう)
まとめると、「つながりを作りたい」という話には、二つの確認事項があります。
■ 「何をもってしてつながるのか」の目的設定はあるか
■ ゆるくても続くための仕掛け(コミュニケーションのデザイン)はあるか
この二つを軽視すると、「つながり」ブームは早期終了となるのでは…
なんてヒラクは最近思うのでした。

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