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「うどん県」から考える広告的手法【後編】

後編です。さて、広告における認知の構造を下敷きに、「うどん県」を考察してみましょう(おっ、この言い回し、アカデミック)。

さて、「うどん県」のケースにおいて、巨人の星ないしAKBにあたるのは、「うどん」です(わざわざ言うまでもないな)。

要潤とか松本明子とかも出てきますけど、それは脇役。 構造として見てみると、「うどん」という誰でも知っとるぞ!というアイコンと、香川県という「マイナー(であると多分観光課は心を痛めている)地域」を抱き合わせにしている。 そして、(これがクリエイティブとしてのひねりですが)そういう「ある一つの料理のほうが、その土地とか風土よりも上位にきてしまっている」ということのバカバカしさを、諧謔に昇華し「ネタ」にしてしまっている。

「地営業」を提唱する僕の立場からコメントしますと、「香川県、それはあまりにも自己卑下ではなかろうか」と思うのです。その土地で何百年もかけて蓄積してきた色んなものを、あまりにもわかりやすい「物質性」に還元してしまってよいのですか?

前編で「時間短縮に大金払う」というメカニズムをお話しましたが、これは「タレント」が「ネタ」に変わったケースなのです。「香川よりうどんのほうがみんな知っている。だからうどん県にする、というかしちゃった」。そのネタによって、認知の底上げを狙う。そのロジックはわからんでもない、アートディレクターとしてはわからんでもないのだが、しかしそれはあまりにも「なりふりかまわぬ」方法であり、そのゆえに「短期戦略」にも程がある、と僕は思うのです。

想像してみましょう。実はこのロジック、クリエイティブとしてはこだわっているのですが、発想自体は「深度ゼロ」です。

つまり、「他の人も安易に真似しちゃう」可能性があるのです。 栃木を「餃子県」にしようとか、川越市を「芋市」にしようとか、ボルドーを「ワイン県」にしようとか、そういう類のプロモーションがどんどん出てきたらどうなるのか。 それは、家電も食品もファッションも携帯もパチンコも全部AKB48の広告になって、「あれもこれもAKBすぎて当の広告が何だったのか覚えてない」という昨今の非常事態と同じものです。 そんな極端なことは起こらなかったとしても、こういうことは言えるかもしれません。

一つの「ネタ」は永続しない。しかし短期で見れば超成功してしまった。しかしやがてネタが終わる。その後に残る「認知のクオリティ」を考えてみたらどうでしょうか。「香川県?ああ、うどんの(笑)」。恐らく今度は笑えない「ネタ感」が発生するでしょう。

ネタが壮大であればあるほどその後に残されるであろう負の遺産のマッシヴぶりも比例します。 そういう「広告としてどうなのよ」という視点以上に、その「短期でがっつり認知があがれば良いのだ」という姿勢の裏に、その土地固有の、やむにやまれぬ歴史的文脈から生まれた食生活や建築様式や祭りのバリエーションとか、人の精神性という「良いも悪いも含めて、時間をかけて蓄積してきた」ものへのリスペクトを損なうリスクがあることを考えたほうがいいと思うのです。

僕、あんまり何かに対して良い悪いを言いたくない性格ですけど、うどん県のプロモーションにはその土地固有の「文化」や「時間の蓄積」に対しての思慮はあるのか、それは言っておきたい。

確かに、広告のコミュニケーションって、フォーカスが必要ですけど、その土地の文化が固有のものとして成り立つためには、無数の「ローカルでマイナー」なものの堆積と多様性があるわけです。その土地の人が何代にもわたって「生きるために」蓄積してきた様々な技術とプロダクトがある。その地味なもののベースの上に、偶発的に認知を獲得するものが出てくることを忘れない方がいい。

にも関わらず、「うどん」で括るということは、クラスで1人か2人しかいない超アタマが良い秀才しか社会的価値が無いとか、1億稼ぐ人以外は合コンする価値ないとか、そういうロジックによく似ていると思うのです。 だから、いくらバイラルPRとして成功したとしても、実はその構造自体が「その土地の固有性」を裏切るものであるならば、きっと未来にそのしっぺ返しがくる。ランキング付け上位の「商品」をゴリ押しするロジックが、ローカル経済を破壊してきたのだから。

結論。僕は制作チームを責めようとは思わない。むしろ、自己卑下の感情から、なりふりかまわず「うどん県」のアイデアが出て来てしまうようなオーダーを出した(であろう)香川県に言いたい。 「もっと自分の土地、リスペクトしようよ!」 ああ、なんかどっと疲れた。今日はうどん食べて寝よ。ずずず。

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